阪神淡路大震災の体験・エピソード No.10 神戸のコンタクトレンズ市場の行方は?
阪神淡路大震災の体験 寒い三宮の震災地です。簡易ガスコンロでお湯を炊いて、暖をとっています。
社員のいない廃墟のさんプラザ 震災体験エピソード
震災支援でほしい物は、人手です。
社員は、連絡が取れず、消息不明で人手が足りません。
誰も会社に出勤してきません。
多分、会社に来ても何もすることがないと判断しているのでは?と思いました。
しかし、留守番役でも人手が欲しいのです。
さんプラザのビルの店舗はどこも閉まっています。
3階の医療コーナーの耳鼻咽喉科、内科、歯科の診療所はいずれも閉まったままで、先生とスタッフの姿は見えません。
人気のない所で、まんじりともしないで、この先のことを考えました。
とても、不安な気分でした。
寒さを凌いで元気を出そう!
さんプラザビルに出社して、廊下に出てガスコンロで火を付けて、少しでも暖かいものでも飲んで、元気を出そうと思いました。
簡易ガスボンベの上の鍋に水をはり、暖かいものを作りました。
廊下は薄暗く、近くの窓から自然の光が差し込んでいます。
陽が昇る朝から陽が沈む夕方までは自然の光で復興を進めることができるようです。
廊下の角を曲がり、窓から遠くなるほど明かりは暗くなり、不気味さを感じます。
水道の水は止まっています。
水を汲んでお湯を沸かすことはできません。
ペットボトルで戴いたお水が頼りになります。
【1995年1月24日 読売新聞より】
留守番役の大切さ
誰が来るかわからない中で、もし誰かが震災見舞いに来てくれたら社長の私がいなければならないと思いました。
線路を歩いて寒い中を来ていただいたお見舞いに来て頂いた方に申し訳ないことになるのです。
やはりじっとさんプラザの3階に待機している時間も必要でした。
留守番役も大切な役目です。
イメージ画像【2005年1月13日放映 読売テレビより】
イメージ画像 【2005年1月13日放映 読売テレビより】
取引先からの震災お見舞い
チバビジョンの杉山部長が震災復興支援にやってこられました。
過分なお見舞い金と飲み物、食べ物などの支援物資を戴きました。
我が社の状況を確認することと、復興の可能性をを確認するために、メーカーの担当者や上司の方からのお見舞いが来るようになりました。
「出来るだけ応援をしたい」とありがたい言葉をいただいています。
しかし今することはまだないのです。
移る場所がなければ荷物の整理すら出来ません。
震災後の神戸コンタクト市場の行方は?
取引先の会社は本社が神戸以外にありました。
取引先は本社、営業所、倉庫、流通拠点等には震災による被害は出ておりませんでした。
メーカー各社は神戸を中心とした罹災した取引先の支援を行い、
自社のコンタクトレンズやケア用品の流通を担ってくれる販売店を求めていました。
これまでの市場リーダーであった神戸そごうの東京メガネ、神戸大丸の神戸眼鏡院、
国際会館の国際コンタクトレンズの各社とも、全壊したビルの中に店舗があったのです。
レンズメーカーにとっては、これまでの市場リーダーに頼れなくなったのです。
一日でも早く自社のレンズとケア用品を通常の流通に戻したいという本社からの意向がありました。
メーカーから支援の申し入れがあり、どのようにこれを受け入れていくか、どのレンズ会社に何の役割をしていただくか、少しずつ考えていく必要性を感じました。
資金 人材 店舗の確保
日々の経営には資金が必要となります。
震災の為、今は商品を買うお店もほとんどなく、復興のために欲しい物があっても買うお店がありません。
通信販売も交通が麻痺していたので、商品は届きませんでした。
資金ですが、何か活動をするためにはまずはお金が必要であることは普段と変わりません。
少しでも手元にお金を置いておかなければ決済ができません。
そこで、いくらかは会社に置いていました。
今は治安が平静ではないので、現金を持ち歩いているとなお危険です。
どこに預けておくのが安全なのか気にしつつ、急にお金が要ることにも備えなければなりません。
銀行業務も少しずつ回復し稼動を始めたので、銀行の貸し金庫に行き、大切なものを預けました。
治安は不安な一面はありましたが、銀行が少しずつ本来の機能を回復しつつあることに安心します。
【1995年1月23~25日付読売新聞より】
今日嬉しかったことは、東京の姉から、もしお金で困っていることがあれば用立てをするという支援の連絡がありました。
もし震災で再建に対して資金が必要な場合は、応援したいという申し入れでした。
今とくにお金に困っているわけではありませんが、 このような申し入れをいただければ勇気が湧いてきます。
1995年1月25日(水)2019年1月更新