神戸市役所市民ホールは罹災者の情報交換所。震災8日後(№9)
神戸市役所に情報を求めて罹災した市民が集まっています。神戸市役所2号館は6階部分が崩壊しています。№9
市民ホールが情報集積地
神戸市役所が情報交換と復興支援の中心地になっています。
携帯電話やパソコン、スマートフォン等が無かった2019年1月では、
紙媒体が情報源でした。
安否の確認を求める人や、自分自身の消息を伝えたい人、探し人などは、
神戸市役所の1階市民ホールへ集まっていました。
壁新聞のように大きな紙に文字を書いて掲載している人、神戸市が
用意してくれた「私はここにいます」と見出しが書かれている所定の用紙に、
伝えたいことを手書きで書いて掲示していました。
市民ホールでは、テレビ局、放送局、新聞社の記者が集まって、
情報交換をしていました。
ボランティアの方も市民ホールの周辺に集まって、お弁当や飲み物などを、
罹災者へ配る活動をしていました。
NTTは臨時の公衆電話を設置して、罹災者は無料で電話を利用できました。
街はどこも渋滞
この日は有馬からさんプラザビルに出社してみました。
有馬から三宮へ行くことは、バスルートが頼りになっています。
神鉄も動いていないのでバスに乗って三宮まで長い時間をかけて渋滞の中、
たどり着きました。
渋滞の原因は電車が止まっていたことですが、電気が止まっていたので、
信号機は作動せず、車は警官の手信号に従っていました。
≫6階部分が崩壊した神戸市役所2号館
連絡場所は廃墟のさんプラザ店
店舗で稼働していないのに、なぜ、店舗の前で待機していたのかといえば、
電話が無かったので、お互いに集合時間とか、どこに集まるかという
取り決めができませんでした。
そこで集合場所は店舗前になったのでした。
さんプラザ3階の事務所前の廊下でガスコンロを炊いて、鍋にお水を張り、
お湯にして、お湯に缶コーヒーを入れて温めていました。
缶コーヒーで少しでも暖をとって待っていると、メニコンの安永幹夫さん、
アルファーコーポレーションの槙隆司さんが、それぞれ支援物資を持って
応援に来てくれました。
支援物資は日用品
支援物資はガスボンベ、ペットボトルのお水、缶コーヒー、飲み物、お菓子などの
お見舞客の接客に必要なものでした。
近くの生活必需品を売るお店が無かったので、これは助かりました。
今電車は止まっているので、大阪方面から来る人は、阪急であれば西宮北口で
止まります。
JRなら芦屋です。そこから線路を伝って歩いて三宮までやってきたそうです。
大変なことです。
≫【2005年1月11日放映NHKより】
復興の第一歩
さんプラザビルの暗い洞窟のような中で、復興の第一歩はレンズ室を
整理することから始まりました。
倒れた器具や什器、備品を起こし、使えるものと使えないものとを区別していきます。
壊れて使えなくなったものは、破棄することになります。
顧客情報は守秘義務があるので、取り扱いには注意しました。
むやみに捨てることはできませんでした。
移転先を求めて今日も歩く
今日の課題も仮店舗のための移転先を探すことから始まります。
ここが適当とこちらが思っても、ビルのオーナーが貸してくれなければ
片思いに終わります。
なので移転先の確保はなかなか決定に至りません。
コンタクトレンズの取引先、メインバンク、証券会社、薬メーカーなどの
これまでの取引先を中心にして、移転先のビルを紹介してもらました。
平時であれば、不動産会社にお願いするのですが、不動産会社は
軒並み震災の罹災者なので、ビジネスは休止していました。
こんな時は、縁故による紹介が頼りでした。
今日はクレセントビル、今西ビル、リクルートビル、金沢ビルなどを
訪ねて回りました。
今西ビルはメニコンの安永幹夫さんからの紹介でした。
昨日下見をしたビルです。
移転先の候補の中に証券会社から紹介があったビルもありました。
一つ一つ歩いて訪ねていって、貸していただけるのか確かめてみました。
飛び込みで賃貸をお願い
さんプラザビルからなるべく近くて無傷のビルと言えば、
神戸市役所の周辺に集まっています。
そこで、神戸市役所の近くのビルを一軒一軒紹介なしの飛び込みで
訪れて見て回りました。
≫神戸市役所2号館(提供:阪神・淡路大震災『1.17の記録)
これぞと思うビルは予約済み
神戸の震災で多くの企業が傷ついていました。
本社が東京や大阪にあり、神戸が支店、営業所となっている企業は
今回震災で新たな支店、営業所を探さなければならないようです。
大手企業を中心とした空き店舗の確保の争奪戦が厳しい状況です。
すでに大手の企業が押さえているとことが多くあります。
ビルの管理人の方やオーナーの方と連絡をとることも大変難しい状況にあります。
ビルの所有者に電話をするのも、ご本人に面接するのも、なかなか会えない、
あるいは連絡ができないのです。
少しでも時間が経過するとビルが埋まってしまうという焦りもありました。
一軒一軒歩いていく途中にめぼしいビルがあればノートに控えて連絡を
とってみる方法を考えました。
今回の地震でかなりのビルが傷んでいますから、損傷があまりなくすぐに使える、
そして空室というのは中々難しい条件なのです。
≫【1995年1月24日読売新聞より】
社員を訪ねて安否確認
電話連絡では従業員の安否確認と、確認が取れていない社員を訪ねました。
男性の竹内君がまだ連絡が取れていません。
そこで安否確認のために彼の家まで歩いて訪ねていってみました。
中山手の坂道を歩いて、履歴書に書いてある住所を探し歩きながら、
やっと彼の家を見つけました。
アパートに行ってみると部屋の鍵はかかっていませんでした。
ですが、あいにくと竹内君は留守でした。
鍵がかかっていないので、ドアを押して中に入ってみました。
≫1/25中央区中山手通やまと温泉(提供:阪神・淡路大震災『1.17の記録)
竹内君の部屋でしばらく待ってみましたが、帰ってくるのか、
どこかに避難しているのか、それもわからない状態でした。
しばらく待ってみても戻らないので、心配していることや連絡方法を
紙に書いて置いておきました。
部屋の様子だと、竹内君はここで生活をしていることがわかりました。
元気でいればまずは連絡をしてほしく思いました。
一人一人の従業員の安否がとても気になります。
【1995年1月24日読売新聞より】
出勤が始まる
この日から社員の中で出勤できる人が少しずつ出社を始めました。
男性の社員小山君が今日出社していました。
小山君も今回の地震で色々とダメージを受けたようで、気持ちの上でかなり
落ち込んでいるように見えました。
2019年1月更新