松葉氏家祖は誰でしょう? 松葉家は平賀氏から生じる 松葉家の家祖 松葉資宗 安芸の松葉氏 松葉家は平賀氏から生じる 松葉氏の名前の由来  

【目次】
●松葉氏の名前の由来は?
松葉氏(全国松葉マップ)
●松葉さん集合

一族 一族

松葉姓、全国で約12,700名です。

松葉姓の皆様、ご自分の縁につながる方などの

「松葉」に繋がる情報提供をお願い申し上げます。

 松葉さんは、全国で約12,700名です。

日本の人口は1億2,700万人なので、

1万人について1名が松葉さんの割合いになります。

それでは、松葉さんの名前はどこからきたのでしょうか。

松葉のルーツを探るため全国の「松葉姓」の皆さん、

そして「松葉」にご縁を持つ皆様方からの情報をお待ちいたしています。

 松葉家 ルーツ 松葉の歴史 松葉家の由来 松葉の屋号 

松葉の地名について何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、

情報の相互交換をお願い申し上げます。

「情報交換掲示板」は こちら

 

松葉家は平賀氏から生じる 松葉家の家祖 松葉資宗

安芸平賀氏は太政大臣であった藤原良房の後裔を称し、

松葉資宗(すけむね)を始祖としている。

資宗は源頼朝に協力して治承・寿永の乱(源平合戦)で数多くの功を挙げ、

出羽平鹿郡安芸高屋保、上総桜尾郷、越中油田条を与えられた。

資宗の子、松葉惟泰(これやす、平賀惟泰)の頃に出羽平鹿郡に下向、

在所の名を取って平鹿氏(平賀氏)を称した。

惟泰の兄・松葉朝宗(ともむね)は建保2年(1214年)4月19日に

将軍源実朝烏帽子親として元服してその1字を与えられて

初め実宗(さねむね)、のち朝宗と名乗った[3][4]

惟泰自身も貞永2年(1232年)7月11日に

北条泰時の邸宅で元服して「泰」の字を与えられ[3][4]

また弟の松葉惟時(これとき、平賀惟時)も

北条時頼の邸宅で元服して「時」の字を与えられている[3][4]

文永11年(1274年)頃に平賀氏の一族が元軍の攻撃に備えて、

大陸や半島に近い他の御家人らと共に西国に下向。

そのまま所領の安芸高屋保に御薗宇城を築いて居城とした。

鎌倉幕府が滅亡すると、

高屋保を領していた平賀共兼(ともかね)は

足利尊氏に従って活躍した。

しかし、庶長子であった共兼は平賀氏の惣領であった

弟の平賀直宗(なおむね)と家督相続で対立。

この抗争に直宗が勝利した結果、

直宗が高屋保に下向して高屋保の支配にあたった。

これより平賀氏の本拠は安芸高屋保となり、

出羽平鹿郡等は徐々に失われていった。

安芸国人領主となった平賀氏は勢力の拡大に腐心し、

近隣の国人との連携を深めていった。

室町時代戦国時代における歴代当主は大内氏当主より偏諱を受けている。

応永の安芸国人一揆でも指導的役割を果たし、

毛利氏の家督を巡る内紛にも介入して、

毛利宗家と庶家の和解に尽力した。戦国時代に入ると、

当主の平賀弘保文亀3年(1503年)に白山城を新たに築いた。

永正5年(1508年)、周防長門大内義興足利義稙を奉じて上洛した際には、

弘保も他の安芸国人と共に上洛して、船岡山合戦等でも活躍した。

その後、大内氏尼子氏両者の争いが激化した。

大永3年(1523年)6月、大内方の鏡山城が落城すると、

弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、

近隣の頭崎山に頭崎城を築城。嫡男の興貞を城主とした。

ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、

大内方に味方した弘保と孫の隆宗新九郎(後の広相)

兄弟で争いを繰り広げることとなった。

天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就

高屋保へと進出、頭崎城を攻略した。

敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続した。

隆宗は大内方として活躍するが、

天文18年(1549年)に備後神辺城を攻撃中に死去した。

弘保は家督を新九郎に継がせようと考えたが、

義隆の策謀によって平賀氏の家督は

小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗った。

天文20年(1551年)に大寧寺の変で義隆が陶隆房によって殺害されると、

陶方に味方していた毛利元就は、

大内方であった頭崎城の隆保を攻めて自殺させ、

家督を新九郎に継がせた。

新九郎は毛利氏よりその祖先・大江広元に因む

「広」の字を与えられて「広相」と改名、

毛利氏との関係強化に努め、

近隣の小早川氏に養子に入った小早川隆景と義兄弟の仲となり、

国人としての自律性を有しながらも毛利氏への従属を深めていった。

これに伴い偏諱も毛利氏当主から受けるようになっている。

永禄10年(1567年)に広相が死去すると家督は嫡男の元相が継いだ。

毛利氏が最大勢力を築いていた頃には、

平賀氏の所領も最大となり1万8,000石を領する規模まで成長していた。

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、

毛利氏が防長移封となると、

平賀氏もそれに随行して移住し、

所領も4,000石と大幅な減封となったため、

元相はそれに苦悩して翌年の慶長6年(1601年)に家禄を返上して上洛。

京都での隠棲生活に入った。

後に嫡男の元忠(もとただ)が300石の毛利家臣として復帰。

なおも京都に住み続けた元相であったが、

寛永13年(1636年)に孫の就忠(なりただ)からの要請を受けて萩に戻り

99歳で大往生を遂げた。

平賀氏はその後も毛利氏家臣として続いた。

註) 以上 出典 ウイキペディア

松葉家家祖 初代 松葉資宗は文永2年(1265年)に死去しました。

松葉資宗は、源頼朝に仕え、平家追討の際、壇ノ浦の戦功によって、

安芸高屋保を賜りました。

松葉七郎は、建武3年(1336年)京都西坂本の戦いで

負傷したことが記録に残っています。

松葉資宗から続く広島県賀茂郡の松葉氏は、

賀茂郡との地縁が始まり歴代の松葉氏は、この土地に眠っています。

松葉氏の松葉屋敷跡石垣を活用して、

松葉家の記念モニュメントを創る事にしました。

出展:「加茂郡史~中世武士編~ 飯田米秋 著 東広島ジャーナル発行」

前方後円墳

松葉博雄の平成の前方後円墳

[松葉家の歴史 安芸の松葉の祖先 家祖について]

松葉家の系図と家紋

 
 
 
 
 
 
 
 
 
「出つ羽なる 平賀の庄に 咲花は 幾たび見ても 梅のから花」
 

「松葉家の歴史 安芸の松葉氏 藤原姓松葉氏の素」

系図集の原典である「尊卑分脈」によると、

松葉氏は藤原氏の太祖、大織冠藤原鎌足より始まる。

淡海公不比等、参議房前、大納言眞楯、内大臣内麿、左大臣冬嗣、

太政大臣良房、利世、中納言共良、内蔵頭良春、遠江守、

備中守共資、共保、共宗を経て、松 葉氏の家祖、資宗となる。

資宗は、松葉遠江次郎と称していた。

「東鑑(あずまかがみ)」に松葉次郎について、尾張国の御家人にて、文永2年(1265年)

97才にて没する。

父の 宗益(松葉入道と称する)と共に源氏に属して軍功あり、

出羽の平鹿郡、安芸の高屋保などに所領を有するという記述があり、

この松葉次郎が資宗と見られ、松 葉氏の家祖と見られている。

平賀氏の開祖、松葉資宗が壇ノ浦で平家の赤旗を射切り、

その功績で文永元年(1185)後鳥羽院より、

御歌「出つ羽なる 平賀の庄に 咲花は 幾たび見 ても 梅のから花」を賜った(写真 左)。

この時から唐家紋が平賀氏の家紋となった(写真 中央)。  

資宗の子息は出羽に転じて平鹿郡の地頭となり、その後安芸に移り、

「平鹿」が「平賀氏」と称することになった。

この平賀氏から松葉氏が生ずる事となった (写真右の系図)。

 

前方後円墳 記念モニュメント

 

前方後円墳 松葉博雄の記念モニュメントの由来
松葉の祖先 家祖について

「前方後円墳の構想」 第1話
「前方後円墳の設計・整地」 第2話
「前方後円墳の墨だしから配筋、コンクリート打ちまで」 第3話
「前方後円墳の防水と埋戻し工事」 第4話
「前方後円墳の外装石材工事」 第5話

前方後円墳のメンテナンス2005年夏
前方後円墳のメンテナンス2007年夏
前方後円墳のメンテナンス2011年 春

 

 

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