明日は 阪神淡路大震災 30年記念日【社長経営学】<特別編④>

投稿No:10142

明日 1月17日は 阪神淡路大震災 30年記念日【社長経営学】<特別編④>   本篇は、「社長経営学」の震災関連の記事を「特別編】として紹介しています。    特別編①  特別編⓶  特別編③

不安な一夜

冬の日没は早く、いつの間にか夕暮れになり、

今日一日が終わりかけています。

テレビもラジオもないまま情報は得られず、

最も被害の軽かった姉の家に兄弟家族が集まり、

これからの対策を考えました。

乏しい情報の中で、

長田地区では夕方ごろ火災が発生し、

それを取材するヘリコプター

の爆音が一層不安を煽るようで、

不安な夜になってきました。

停電のため明かりもないなかで、

震災後初めての夜が更けていきます。

余震が時々あり、揺れが恐さを思い出させます。

1階車庫が押し潰されたマンション(JR 摂津本山駅近くで、筆者写す)

寒さ、空腹、水、連絡など、

不安なことがいっぱいでした。

わずかな情報を元に推測しながら、

長い時間今後の対策を考えるうち

に深夜となり、朝に着た服のまま

姉の家で寝ることにしました。

2日目(1月18 日)岡本地区の惨状

阪急岡本駅からJR摂津本山駅までの辺りを

歩いて見て回りました。

摂津本山駅周辺では、マンションの

2階・3階部分が潰れて折り重なり、

建物は傾いてしまっています。

車庫の車がマンションの床に

押し潰されている光景も見ました。

岡本、本山地区では倒壊した住宅がたくさんありました。

三宮の惨状は昨日見てきたので、

阪神淡路大震災

会社に行ってもできることはなく、

もう会社に行く必要がなくなりました。

これまで経験したこともないような

大規模な地震が神戸の市街地を襲い、

これまでのような、穏やかな日常生活が

送れなくなったことがわかってきました。

阪急岡本駅の自宅は、

住める状況ではありませんでした。

電気、水道、ガスは停まり暖房

も飲み水もなく、炊飯もできません。

想像を超える甚大な被害を前に、

呆然と為す術もなく

立ち尽くす人たちの様子を見るにつけ、

この地震の物凄さを改めて感じました。

瓦を積んだ日本式の建物は地震に弱く、

潰れてしまっている家が多く見られました。

マンションの場合は、

直下型の地震により支柱が折れて、

床が尻餅をついたような状態で

倒壊している姿が目に付きました。

水と食べ物を求めて

生活のためには食べ物と水が

たちまち必要になってきます。

ダイエー岡本店が開いているという情報を耳にし、

食べ物を買うために行列に並びました。

災害の中にあっても住民の皆さんは

秩序を守って行列に並び、

抜け駆けをするような様子はありませんでした。

店の前で待っている間にも余震が続き、

地面が揺れ、ビルの間に音が共鳴しあって

「ゴーン、ゴーン」という大きな音が聞こえ、

不安を感じざるを得ませんでした。

避難所となった中央区体育館(神戸市提供)

被災した方々が一時的に避難している場所は、

小学校・中学校・大学などの公共の建物でした。

魚崎に住んでいる親戚が

甲南大学に避難していることがわかったので、

少しですが食べ物を届けに行きました。

体育館で多くの方が毛布をかぶり、

寒さに耐えておられました。

親戚とは、お互いに励ましあって

おむすびを渡すことができました。

気になるのは、わが社の従業員の皆さんの安否消息です。

停電により電話は使えなくなりました。

携帯電話はまだ普及していなかったので、

相互の連絡が取れない中で、

お互いの安否を確認することはとても難しいことでした。

都市生活は普段は便利に暮らせますが、

一旦電気・ガス・水道などのライフラインが破壊されると、

生活は途端に成り立たなくなります。

神戸からどこか田舎へ一旦避難したほうが、

水や食料・暖房などの生活手段を

確保するためにはいいように思えてきました。

「マズローの欲求五段階説」という理論があります。

最初の欲求段階は生命・生活に関する欲求に始まります。

この学説の通り文化的生活から、

生命・生活に関する欲求へと、

欲望は第1段階に戻ってしまいました。

神戸を離れて岡山の大学・高校・中学校の

寮に入っている3人の子供たちとの連絡も取れないまま、

近隣の被害の様子と、わかる限りの

情報の収集に一日が終わりました。

3日目(1月19日)いったん有馬へ

三宮のセンター街が火事という噂を聞き、

車で三宮に向かってみたものの、

道路は秩序を失い、近隣からきた

救援の車や消防車で溢れ、

交通渋滞を起こしていました。

お昼ごろになると

元町に近い三宮商店街から出火があり、

燃え盛る炎がセンタープラザビルに近づいていました。

消防隊の皆さんが消火活動を必死に行ってくれていました。

火事を目にしたビルのテナントからは、

指を差しながら「燃えている、燃えている」と

涙を流しながら叫んでいる声が聞こえました。

会社の再建を考えるにしても

今の生活をなんとかしなければ、

水と食べ物すら不自由しています。

余震もどれほど大きな地震が起きるか、

当時にはわからない不安な要因でした。

そこで、安全な生活の拠点を求めて、

六甲山を越えて北区の有馬に行ってみることにしました。

有馬には母が残したマンションがあるのです。

六甲山のトンネルを抜けるまでに、

警察官の手信号による順番待ちだけでも

3時間ほどかかりました。

大変な交通渋滞の中で、

有馬までの道のりはとても遠かったです。

驚いたことに、六甲トンネルを通り抜けて

北区に入りしばらく走っていると、

パチンコ屋さんのネオンが煌々と輝いて

普段通りの営業をしていました。

「え~これはなんだ!?   

ここには地震が来なかったのか」と

三宮との違いに驚きました。

六甲山のトンネルを通り抜けるだけで、

これほどまでに生活環境が一変するものかと、

大変な驚きを覚えました。

有馬に行ってみたものの、

生活の拠点としようと思ったマンションは、

給水管が壊れ、水道が止まっていることがわかりました。

岡本地区や三宮よりははるかに被害は少ないものの、

水が出ないことには困りました。

少し気を取り直して散歩のつもりで周辺を歩き、

さらにロープウェーのある駅に向かって

周りの山を見回してみると、

地滑りと山崩れにより土や岩肌が露出し、

立ち木は山土とともに

谷底へと崩れ落ちているようでした。

ゴーゴーと山に響く余震の音は、

地面の奥から噴出するようで、不安を煽ります。

ここも強い余震がくれば山は崩れ、

道は塞がれ、動くこともままならない

危険な場所のように思えてきました。

そこで、疎開先をより安全な場所に求めて

もっと遠くへ移ることにし、

姉が所有するマンションのある

岡山県美作町の湯郷温泉に行くことにしました。

4日目(1月20日)岡山・湯郷を避難先に

一部の高速道路は利用することができたので、

兄の家族と姉、そして私の奥さんとで

2台の車に分かれ、朝有馬を出て、

昼ごろには美作町に入ることができました。

湯郷温泉地区では、電気・水道・ガス・食料などが

普段のように入手できます。

しばらくはここに生活の拠点を移し、

再建をはかる震災対策本部とすることにしました。

国道脇のお店に入れば温かい食べ物が並び、

お金を払えば欲しい物が手に入る

都市生活が戻ってきました。

4日目にして眼科医院とわが社の

仮の震災対策本部ができたことで、

公衆電話を使いながらできるだけの関係先に安否を伝え、

従業員の皆さん方の消息の確認に取り掛かりました。

救援をしたくても、院長と社長が

どこにいるのかがわからなければ、

医師会、取引先は支援できません。

一緒に働いていた従業員の皆さん方とも、

安否を連絡しあう情報拠点を作らなければ

安否確認は進みません。

気になることがいっぱいあり、

各方面の方にできるだけ

電話をどんどんかけ、

まずは生きていることを伝えました。

やっと入ることができた温泉は、

怖さと不安と焦燥感に包まれた、

疲れた体を暖めてくれました。

今ごろはまだ神戸の被災者の方々は

お風呂に入ることもできないで、

避難所で不自由な生活を

されているのかと思うと胸が痛みました。

空振りの救援に感動

私が今どこに避難しているか、

通信網が壊れて情報を発信できていませんでした。

心配して連絡を取っていただいた方へも、

返信できていませんでした。

あとから聞いた話では、

個人的に救援物資を持って、

西宮北口から徒歩で線路を歩いて、

神戸の岡本にある私の自宅に

届けてくださった方がいらっしゃいました。

重い水をペットボトルに入れて、

食べ物とともにリュックに背負い、

わざわざ歩いて救援に来てくださったようです。

メニコンの塚本弘昭さんは

名古屋から岡本の自宅まで、

支援に来てくださいました。

震災の翌日には大阪から西宮北口までは

阪急電車が動いていました。

崩れた線路写真

西宮北口からは岡本まで線路伝いに

皆さん歩いたそうです。

アルファ・コーポレーションの槇 隆司さんは、

奈良から救援に来てくれました。

大阪から船に乗り、

海路を取ったということでした。

これは意外でした。

陸路だけでなく、船で救援に向かう方法もあったのです。

しかし残念ながら湯郷温泉へ

疎開してしまった後だったので、

重いリュックを背負い歩きながら

せっかく支援に持ってきていただいた

水と食料と励ましの勇気を、

直接いただくことはできませんでした。

私が不在のために、さぞがっかりされたことと思います。

しかしご近所の方に

「水と食べ物は傷まないうちに召し上がりください」と、

その気持ちは生かされました。

あとで聞いて大変うれしく感動しました。

入居ビルは取り壊しか

湯郷温泉から津山市へは、

車で30分ほどの近い距離にあります。

神戸の情報を入手するにも、

関係先に連絡をするにも、

どこか情報が交換しやすい場所に行く必要がありました。

津山の街に行ってみて、

神戸の震災の状況を

テレビや新聞で初めて知ることができました。

想像以上の被害に、改めて驚きました。

震災の真っただ中にいて逃げ惑う私と家族は、

落ち着いて被害の状況を

これまで知ることができなかったのです。

センタープラザビルの管理事務所と

震災後初めて連絡が取れました。

さんプラザビルの被害がとくにひどいようでした。

近々区分所有者集会を非常招集し、

被害の状況をテナントや区分所有者に説明して、

今後の全体の方向性を検討する

集会が開かれるということでした。

北東側の交通センタービルから見たさんプラザビル(筆者写す)

震災直後に私がさんプラザビルを遠くから見た時には、

被害の詳しい状況は把握できていませんでした。

あまり損傷のない状態で建っているように見えましたが、

実はビルの6階部分の柱が折れ、

下の階に上の階が押し重なり、

とても危険な状態で立ち入ることもできない状態でした。

最悪の場合はビルを取り壊さなければいけない、

という意見が討議されていることを知り驚きました。

予定では神戸市によって、

安全なビルと危険なビルの区別をする点検がなされ、

危険なビルは立ち入りが禁止され

取り壊される方針のようです。

これまで頑丈な鉄筋コンクリートのビルと

思っていたさんプラザビルが、

直下型の地震を受け、

尻餅をつくようにビル自体が

へたり込んでしまっていたのです。

これからどのようにしてわが社を存続させようかと考えると、

一瞬「こりゃ、さんプラザビルを頼ってもだめだ」

と思ってしまいました。

そうなると、なるたけ早いうちに代わりの

移転先を探す必要があるし、

こんな時に壊れていない

安全な商業ビルが見つかるだろうかと、

前途に不安を感じてしまいました。

普段テレビをつけてチャンネルを回せば、

たくさんの情報を居ながらにして知ることができます。

しかし、非常時には不可能です。

うまくいっても双方向ではなく、一方通行なのです。

なんとか関係者と連絡を取り合って、

この先の会社運営の進め方について

相談や議論をしたいと思っても、

時間が経過しなければ混乱は鎮まらないのです。

一刻も早く店舗の確保のために

神戸に戻らないといけないと、

イライラしながら、

今日一日が終わってしまいました。

5日目(1月21日)情報を求めて再び現場へ

神戸を避けて舞鶴道から北に上がり、

京都を経由すれば大阪に

物資が届くルートができています。

阪神高速道路は一部の橋げたが倒壊し、

かなり長期間にわたり復旧が見込めないようで、

西から東へと物資が移動する陸路では

神戸地区は丹後、丹波にある

無傷の道路網が頼りになっています。

湯郷で再建をどのようにするかと考えているときに、

やはりここにいては状況がわからないという反省から、

家族を湯郷に置いたまま、

一度神戸三宮に情報と貴重品を

取りに行くことにしました。

大学生の甥を連れて、

一旦神戸三田インターの手前である吉川で降りて、

国道をゆっくり走り抜けて神戸に入り、

途中多くの車と接触寸前のぎりぎりの

車間距離で三宮にたどり着きました。

出動した自衛隊の車列(神戸市提供)

危機管理の実態を知る

途中は、普段と変わらない田園の風景が続きました。

違うのは真っ赤な外装をした

消防車がたくさん神戸の手前で、

立ち往生していたことと、

普段はまず見られない自衛隊の車でした。

消防車や救急車と自衛隊では、

指揮系統があるかないかが

大きく違っていました。

消防車や救急車は公共団体が

各地域から派遣した方々です。

予め全体的な行動を示して

「どこそこの地区の車は、どの地域に行くべし」

といった指揮を受けていないようでした。

車を止めてはどこへ行こうか、

相談をしながら、

神戸の方向に進んでいるようでした。

地理の案内もなく、どこに行ってよいのか、

誰が救助を求めているのかわからない状態で、

とにかく神戸へ神戸へと進んでいるように見えます。

他方、自衛隊は秩序を維持し、

指揮系統に従い、無線を常に携帯し、

ジープに乗った先遣隊は

前方の様子を探りながら後方の部隊と連絡を取り合い、

動いていることがわかります。

普段見ることのない自衛隊仕様の

トラック、バス、ジープ、給水車、

援助物資を積んだ運搬用トラックなどと、

神戸に近づくほどたくさん出会いました。

まさに危機管理とは

このような状況であると思います。

ほとんど戦時体制を想像するような部隊の移動でした。

風評では、貴金属や金目の物がありそうな

被災した無人のビルに忍び込み、

窃盗を働く一味がいるとのことです。

火事場泥棒のような噂を聞けば、

これを保全するために、多少の危険も顧みず、

被災したビルの現場に戻ってみることを決意しました。

だけど、本当はおっかなびっくりで、

もし怖そうな人が刃物をちらつかせたらすぐに

逃げることにしていました。


中層階が壊れたさんプラザビル、手前がJR 神戸線(筆者写す)

店内被害を確認

太平閣の横にある一般通用門から、

さんプラザビルに入っていきました。

ビルの出入り口には黄色と黒のロープが張られ、

無断で用のない人が

ビルの中に出入りすることを防ぐために、

ガードマンが警戒にあたっています。

身分を明らかにし、目的を述べ、

中に入ることができました。

3階店舗の事務室(筆者写す)

暗い階段を3階に上がり、

勝手知った廊下を用心しながら店舗に向かいます。

途中、誰かが窃盗を働いていたり、

盗みの目的で入っていたりして、

ばったり出くわし、お芝居のように

「この野郎、見られたからには生かしておけない」

と包丁で刺されたり、

鉄パイプで殴りかかられたりしては困るので、

抜き足、差し足、忍び足でした。

2回目の探訪になる今回の目的は、

様子をみるという前回と違い、

これから再建に向かって

必要な大切な物や貴重品を盗難から防ぐことです。

幸いにも辺りには人影がなく、

略奪にあったような形跡もなくほとんど無傷で、

鍵を開けて室内に入ってみると、

震災当日の前回と何も変わっていませんでした。

改めて室内を見回してみれば、

立てかけていたものは床に倒れ、

ガラスや陶器は割れて散乱し、

光学器械も横転していました。

別の部屋に行ってみると、

容量が2トン以上もある

海水魚用の水槽は床を這い、

かなり移動していましたが、

水槽の台にキャスターをつけていたので

倒れることもなく、

横転はしていませんでした。

海水が床に流れ、

階下のお店にご迷惑をおかけするような

最悪の事態は起きていなかったので、

ややほっとしました。

貴重品を持ち出す何もなかったとはいっても、

高いところから物が落ち辺りに散乱して、

まるで泥棒が何かを探すために家財、

書類を撒き散らしたような状況でした。

その中から現金、実印、銀行通帳、

権利書などの貴重品をかばんに入れて持ち出しました。

自分の物を保全しているにもかかわらず、

何か手当たり次第奪っていくような、

ドラマの役割を演じているような、

役者になったような気持ちでした。

しかし人が持てる物はわずかで、

とりわけ貴重なものくらいしか持ち出すことはできません。

日の光があり真っ暗闇ではないものの、

3階の廊下までは十分な光が届かず、

洞窟や廃墟の中のような不気味な静けさと、

人工の光のない自然の明るさを改めて知りました。

もう一度戸締まりをしっかり点検して、

また来た道を戻り、北区を通って湯郷へ向かいました。

帰り道の北区の街は、ネオンが灯り、

六甲山を境に地震の被害の様相は

大きく違っていることを、改めて知りました。

今日は再建のために必要な

大切な物を確保することができたので、

震災後、初めて仕事らしい仕事をした

満足感に包まれました。

湯郷に帰ってみると、

子供が通う岡山白陵高校の保護者の方が

さっそくお見舞いに来てくれていました。

直接お礼を申し上げることはできませんでしたが、

早くも支援の手が差し伸べられたことに感激しました。

震災の中で自分が逃げ回っている間はなかったことですが、

少し落ち着いてくると、

周囲の人たちが私たちのことを

忘れていないと感じただけで、

本当にうれしく思えるものです。

6日目(1月22日)蛟龍の淵に潜むは天に昇らんがため

震災前まで、三宮地区の

コンタクト販売店リーダーは、

そごう三宮店の東京メガネ、

大丸神戸店の神戸眼鏡院、

そして国際会館コンタクトの3店でした。

3店はいずれも建物が倒壊しました。

これから新しい秩序を求めて

市場リーダーが登場することになります。

避難した先で、三宮の市場環境の変化を考えると、

コンタクトユーザーのために

私が立ち上がらなければならないと決意しました。

現金、預金を確保できたので当面、

資金に不安はありません。

しかし、再建には

どれぐらいの費用と時間と

マンパワーが必要なのか、

これから始まる再建活動の前に

湯郷で静かに考えをまとめ、

英気を養いました。

今は息をひそめて、天に昇る日を待つのです。

7日目(1月23日)有馬に対策本部

1月23日、震災から1週間が経過しました。

神戸の復興が少しずつですが始まっていることを知り、

余震の心配も徐々に遠のいてきました。

いつまでも岡山の田舎で

避難生活をしているわけにもいかず、

神戸に戻ることにし、

その対策本部を有馬へ移しました。

有馬であれば神戸の情報を得やすく、

人と会うこともできるようになるからです。

マンションの壊れた給水管は修理され、

生活できるようになっていました。

温泉にも入れるようになっていました。

主な取引先の方と連絡がつきました。

わが社と眼科の従業員の皆さんの安否も、

だんだんとわかってきました。

幸いなことに、連絡が取れた従業員で

身体に被害があった方はいないことがわかり、

一安心しました。

まだ一部の人は直接の連絡が取れない状態で、

避難所にいるか、自宅から離れて

どこかへ身を寄せているようでした。

有馬から三宮に出てみました。

崩壊したビルがたくさんあり、

街が大きく傷ついているようです。

崩壊した建物から何かが落ちてくることを心配して、

ヘルメットをかぶっている人も数多く見かけます。

それでも街には露店が並んでいました。

民力というのでしょうか、

自然発生的に食べ物を売る屋台が出ています。

センター街を見て回ると

落下したアーケードはすでに撤去され、

青空が見える状況に変わっていました。

街を歩く皆さんは防寒着を着て、口にマスクをし、

背中にリュックを背負い、黙々と歩いています。

阪神淡路大震災 復興物語

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