震災復興を息子に見せる実地教育。阪神大震災後12~15日目(№12)
震災復興を息子に見せる実地教育。富士通ビジネスシステム(FJB)が電話回線をつなぐために来てくれました。№12
親の背中を見せる実地教育
阪神淡路大震災が起きた当時、3人の子供たちは、いずれも神戸を離れて
岡山の学校の寮に入っていました。
長男は中学3年生でした。
人生を生き抜いていくには、倒れた後に起き上がることです。
起き上がる様子を見せるには、これほど貴重な機会はありません。
そこで、岡山白陵中学の校長先生に電話して事情を話して、親がする震災復興を見せるために
長男だけ中学校を休ませました。
校長先生も私の要望に賛同してくれました。
しばらくは私のそばに置いて、震災の復興の現場と起き上がる様子を長男に見せていました。
「家族や知人に連絡をとろうと、NTTが設置した臨時電話に長蛇の列」
【出典:緊急増刊アサヒグラフ1995年2月1日発行】
電話の復旧を最優先
震災が起きてから感じたことは、通信が出来ないことは孤立したようなものだ
ということです。
家庭用・ビジネス用に取り付けられている電話回線は有線なので、
回線確保の復旧を待たなければ個人ではどうにもなりませんでした。
復旧には1つ1つの現場を回る優先順位があるはずです。
どのような順序で回るのかはわかりません。
復旧をお願いするための連絡さえできない状況でした。
そこで、ビジネスフォンを購入した会社に出向いて、足を運んで頼んで頼んで
なんとか優先順位を繰り上がるようにお願いしました。
電話がつながりました
そこで、富士通ビジネスシステム(FJB)が電話回線をつなぐために来てくれました。
取引先だけでなく、顧客との連絡で今困っている問題は、通信回線の確保です。
なんとかお願いした甲斐があってやっと富士通さんが電話の復旧に来てくれました。
気になっていたことは、私達を頼っているお客様がどんなにかコンタクトレンズを
確保したいという気持ちがあったかを気にしていました。
まずたずねてきた方もいたと思いますが、ビルは入り口で閉鎖していましたので、
外部との連絡は電話回線が頼りでした。
お客様から多分たくさんの問い合わせが来ていると思います。
今日まではそれが答えることができない不通回線でしたけれど、
これで391-4900がつながるようになります。
お客様と一本の線でつながってことをとっても嬉しく思いました。
1995年1月28日(土)
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【1995年1月25日付読売新聞より】
息子を学校に戻す
震災後、非常時にはどのようにして対応したらいいのか、これほど親として
子供に実地で教える機会はめったにありません。
そこで、長男はこの生きた現場でこの先生涯に一度あるかないかの大震災の復興を
体験さすことにしました。
学校を休ませ、しばらくは私のそばに置いて、震災の復興の現場を長男に
見せるようにしていました。
もうそろそろ学校に戻らないといけない時期になりました。
長男は今年高校入試の時です。
突然の震災のために受験勉強と受験に大きな動揺を与えました。
しかし、これをなんとか乗り越えて逆境に打ち勝つようになってほしいと思っています。
神戸の瓦礫の中をヘルメットをかぶり、口にマスクをし、肩にリュックを背負い、
親の後を付いて歩き、どのような復興をするのかをしかと見てもらいました。
このような社会勉強は、机の上で本を読んで学べるものではありません。
机上理論より実践を見て、自らの体を使って少しでも倒れたものを起こし、
困った人を助けるような学習をさせました。
阪神淡路大震災13日目:1995年1月29日(日)
移転先を決断
いろいろと悩みました。お金の問題やら、駅から遠い距離の問題が原因です。
しかし、非常時には適切な決断を少しでも早くしなければ、もし他人が横から
物件をさらってしまえば後の祭りです。
そこで、ついに移転先のビルを今西ビルにすることに決めたので、そのための手付金を
銀行から振り込みました。
今日はメニコンの河内茂治部長さんが支援に来られました。
JRは神戸から西までがつながりました。
神戸から三宮までがまだ徒歩が続いています。
従業員の抱く先行き不安
従業員の間にこの先の不安感がつのっています。
無理のないことです。移転先がはっきりしない、従業員自身も震災による
大きな被害を被っている、先の暗い中で仕事らしい仕事はありません。
1月の震災の時期は、季節は冬で、夏の明るさとは対照的に陽は早く暮れました。
着ているものも黒っぽく、街の明かりはほとんど消え、黒とか、暗いムードに
神戸の街は包まれているように思えました。
電気がなければ、4時にはもう夜がやってきます。
≫バス待ちの行列
せっかく歩いて三宮になんとかやって来たのが12時前後、それから3~4時間でもう夜です。
何をするために職場にやって来たのかわからない状態でもありました。
言われたことをするだけの人と、自分で状況を判断して自らが動く人とは
大きな結果の差ができてきます。
冬の暗さと、体の寒さ、そして前途の不安、こんな沈んだ気持ちの中に
神戸の街は沈んでいました。
そこでこのような時には人間性が出てきます。
普段は秩序があっても、このような乱世の時には秩序が崩壊し、それぞれの個人的な
性格が出てきます。
今は電気が限られた容量しかありませんが、その限られた容量の中で電気ストーブを
付けるとブレーカーが落ちてしまうことがあります。
全体のことを考えるか、個人のことを考えるかが問われています。
従業員のK君はしてはいけない電気ストーブを付けて一人で暖まっています。
これではわずかな電力の許容量を超えてすぐにブレーカーが落ちてしまいます。
かといって、このような行為を叱ることもできません。
なぜならそれは平静な時ではないからです。

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【2005年1月13日放映読売テレビより】
何人かの従業員から辞表が出ました。
今のような将来展望がないだけではありません。
通勤が出来ないのです。
特に女性の場合は、交通手段が止まってしまうと、徒歩で来ることには
大きな障害があります。
早く来て早く帰らないといけないのです。
帰りが遅くなれば今は冬なので日が沈むのが早く、危険な状態があるのではないかという、
保護者からの心配があります。
震災の中心の三宮に行くことは危険ではないかという意見です。
無理もありません。
そのような中でも出社を続けてくれる従業員に感謝の気持ちがいっぱいです。
阪神淡路大震災14日目:1995年1月30日(月)
移転先へ引っ越し準備
昨日手付け金を振り込んだことで、今西ビルの鍵を受け取ることが出来ました。
今日は敷金と2か月分の家賃を振り込むように指示がありました。
これで明日からビルに入ることができます。
さっそく移転の準備に取り掛かることになりました。
運搬には、トラックや自動車は使えません。
人力による人海戦術をとらざるを得ません。
そこで、各メーカーさんに連絡をし、応援を依頼しました。
これは、前向きな活動と言えます。
なにしろ目標ができたのですから、ここからは明るい日差しが見えるように思えました。
しかし一方では暗い話が続きます。
今日もまた頼りにしている社員から退職の意思がありました。
今は止めることも出来ません。
今まで築いていたものが波にさらわれる砂の城のように崩れていくことを辛く思いました。
1995年1月31日(火)
2019年1月加筆・更新