父の日に 父松葉章一を偲ぶ 年をとれば分かる お父さんは苦労してたんや
投稿No:9027
年をとれば分かる お父さんは苦労してたんや 父の日に 松葉章一をしのぶ 吉田松陰の歌「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」
父の日に 父 松葉章一を偲ぶ
父の日を前に、私の父のことを偲んでみました。
私の父、松葉章一は産婦人科医、
母、松葉登美子は眼科医でした。
父は、母校の岡山大学医学部から、
血液に関する研究により医学博士の学位を授与されました。
私の名前は、祖父が父の博士号修得にちなんで、
博士の博から博雄と命名したそうです。
父松葉章一博士の 真夜中の呼びかけ
不思議な体験をしました。
3月の下旬のある夜、
眠っていた真夜中に、私の父松葉章一から、
意識の中で呼びかけがありました。
呼びかけられた私は、
まるで夢遊病のように寝室からリビングへと降り、
パソコンの電源をつけ、
「松葉章一」と父の名前を入力し、検索したのです。
これまで、松葉章一で検索しても、
何もヒットするものはありませんでした。
それが、今夜は、
父 松葉章一博士の書いた
学術論文がパソコンに現われたのです。
本当に、不思議な出来事でした。
医学博士松葉章一の研究論文は、
医学博士の学位を取得するための博士論文のようです。
岡山大学医学部が主催する、岡山医学会で、
父 松葉章一博士が書いた当時の活字に起こした原稿が、
「岡山医学界雑誌」に2011年3月1日に公開されたようです。
医学博士松葉章一が書いた論文
「免疫反應ニ及ボス尿素ノ影響(第3報)過敏症ニ及ボス尿素ノ影響」は、
1943年(昭和18年)2月28日に発行されています。
医学博士松葉章一の岡山大学医学部(岡山医学会)の
掲載論文を提出から68年後に見ました。
この論文を読むには、こちらの(http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/file/43852/20110301100623/55_719.pdf)
CiNii(国立情報学研究所論文情報ナビゲーター)の
ページから読むことができます。
父の話を もっと戦争体験を 聞いていたら良かった
松葉章一父は、太平洋戦争の時、招集を受けて、
フィリピンに軍医として出征しました。
日本軍はすでに、追い詰められて、補給も絶たれ
フィリピンでは、山の中を逃げることばかりで、
ろくな食べ物が無かったそうです。
そこで、山の中で見つけた、
昆虫や小動物を捕まえて、食べることになります。
敵に見つかると攻撃されるので、煙が出る、
火を使うことが出来ません。
ほとんど生で食べていたそうです。
戦争の体験談を、もっと聞いておけばよかったと、
食事のたびに後悔します。
松葉章一父は、食糧のない軍隊の中で、
何とか命を繋ぎ生き続けました。
日本軍が降伏したことで、
生きている兵士は、捕虜となりました。
捕虜になると、鉄条網の中に囲われ、
帰国できる日を、じいーと待ってたそうです。
父は、こんな負け戦の戦争体験をすれば、
食べ物のありがたさや、
平穏な生活、一家団欒の食事が、
どれほど大切なことなのか、
体験して分かっていました。
しかし戦争を知らない、
戦後生まれの人たちが多数派になれば、
戦争の実体験は、少しずつ風化していました。
自由になって、食べ物の心配をしなくてよくなりました。
大人になって、悲惨な戦争のことが、
理解出来るようになると、小学校の低学年のときに、
食べ物に好き嫌いを言って、
松葉章一父が怒ったことが、
今では理解できます。
松葉章一父に、聞き逃したことは、サバイバルの方法です。
フィリピンには、およそ50万人の日本兵が出兵し、
生きて帰ったのは、わずか1万人だそうです。
一緒に山の奥を逃げ歩いていた戦友が、
一瞬の砲撃で死んでしまうことを、何度も体験したそうです。
お腹が空いて、気が狂いそうなほど空腹になると、
危険も顧みず、食糧調達に向かうそうです。
そうなると、動けば攻撃され、撃たれて死んでしまいます。
じっと潜んで隠れていると、餓死が待っています。
毒虫や、マラリア、傷口から湧くウジ虫、
餓死していく戦友に、何もしてあげられなかったそうです。
いつ自分が死ぬのかと、毎日夜が来ると、
今日も生きながらえたと思ったそうです。
父の好物は、鮎でした
刷り込み現象です。子供の時に、
親が、鮎を獲って、食べさせてくれていたので、
今でも、鮎が好きです。
産婦人科医だった松葉章一父が鮎が好きで、
一時、投網まで買って鮎とりをしていたので、
幼い頃から、当時としては当たり前のように、
天然鮎を食べていました。
父母の隠居処を 阪急岡本に用意
父母と長女の姉の3人は垂水区塩屋に、
兄と私は、阪急岡本に離れて住んでいました。
両親も岡本に住みたいと思っていたようなので、
岡本に土地を探していました。
バブル景気の終わるころの1989(平成元)年に
阪急岡本駅の直ぐ近くに40坪の土地を買い、
両親のための隠居処を新築しました。
家を建設中に母は肝硬変を患い、
母は、過去の輸血から肝硬変を発症し、
神鋼病院に22か月入院し治療に努めましたが
1991(平成3)年2月16日に
闘病生活のあと亡くなりました。
父もその後1994(平成6)年4月25日、
90歳の時に老衰で亡くなりました。
サクランボの思い出
松葉章一父と、松葉登美子母の隠居所の為に建てた、
阪急岡本のお家に、何の木を植えようかと考えたとき、
花が綺麗か、実がなるものを考えて、
狭いながらも庭があったので、
梅の木とさくらんぼの木を、庭に植えました。
その、さくらんぼの実がなる頃です。
さくらんぼをお供えして、両親を偲びました。
年をとれば分かる お父さんは苦労してたんや
私自身が歳をとって、両親の年が身近になってくると
年をとれば分かることは、
お父さんは苦労してたんや、と思えるようになりました。
日本が戦争に向かって行った軍国主義の時代が青春時代で、
素直に、喜怒哀楽を態度、
行動にあらわさない教育を受けたそうです。
行きたくもない、戦争に招集されて、
地獄のような苦しみに遭い、
戦前・戦中・戦後の食糧難を過ごし
4人の子供たちの生活の責任やら、医院の経営、
晩年になって、やっと落ち着いた生活が出来るようになりました。
孫たちと一緒に、食事会、ドライブ、旅行で癒されていたようです。
孝行をしたいときに親は無し
想えば、若いときには、
親の愛の有り難味が理解できていたのでしょうか?
今の自分を見てもらいたい時には、親は既に死んでいます。
今できることは、竹藪に埋もれたお墓を、山から移すことでした。
後悔しないように、その時に出来ることを、しておくことです。
お詣りし易いように、平地へお墓を移しました。
、
亡くなったあとで出来ることは、
父が心配してた、お墓を次世代に引き継ぐことです。
一時でも、誰かが、父松葉章一のことを、偲んで
弔ってくれることを、望んでいたように思います。