メニコン田中恭一会長ご来訪【総集編】

 さんプラザコンタクトレンズが1971年に創業したとき、最初の取引先は、東洋コンタクトレンズ(現メニコン)でした。

メニコンスーパーコンサート『あしたの瞳』神戸公演の観劇に、田中恭一会長と、奥様の正子さんのご夫妻が、田中英成社長とご一緒に神戸に来られて、田中恭一ご夫妻は神戸に宿泊され、今朝我が社に表敬訪問に来られました。

まずは、田中恭一会長と並んで、記念写真です。

2015年8月に、田中恭一会長が私のために特別に描いて下さった、達磨大師『啐琢(そったく)の機』の絵を挟んで、並びました。

昨夜は、よく眠れましたか?とお尋ねすると、

田中恭一会長は、久し振りにぐっすり眠れたと言われ、今朝はとても体調が良いようです。

会長夫妻がご一緒に得意先を訪問することは、これまでなかったそうです。

田中恭一社長が、20代で東洋コンタクトレンズを設立したとき、それはお二人が結婚して間もない頃で、今からおよそ60年前ほどの事ですが、その頃ご一緒に得意先に集金に訪れた事があるそうです。

それから60年、今日はお二人揃ってのご訪問なので、松葉博雄も緊張しながらお迎えをしています。

何しろ田中恭一会長は、日本のコンタクトレンズ業界では神様のような存在なので、今日のこの機会にしっかりとお話を聞かせて頂き、後世に伝えたいと思います。

コンタクトレンズ業界の研究は、大阪市立大学大学院の時に、メニコンを中心とした研究をしました。

まずは、さんプラザコンタクトレンズが1971年に創業して、それ以来メニコンとの取引関係が長く続いてきた経歴を話しました。

45年もの長きにわたる取引関係で、今日初めて、創業者の田中恭一会長夫妻をお迎えできる事を、我が社全員が心より歓迎している事をお伝えしました。

日本のコンタクトレンズは、1950年代のハードレンズから始まっています。

メニコンのコンタクトレンズは、名古屋から始まり、西へ東へと、営業所が広がっていきました。

大阪営業所が、関西一円を担当していて、我が社が最初にお世話になったのは、大阪営業所の塚本弘昭さんが所長だった時代からです。

1960年から1970年代では、京都・大阪・神戸でのコンタクトレンズの販売は、普及が始まったばかりで、京都大阪は、地元の眼科の先生がいち早く法人化して、メニコンのハードレンズを販売していました。

神戸は、眼科医会の規制が強く、その中で、コンタクトレンズの普及に努めたのは、一部の眼科と、百貨店にテナントとして入っていた眼鏡店でした。

会社設立当時の頃の話しから、家庭の話に変わります。

昨日のメニコンスーパーコンサート『あしたの瞳』では、会長夫人の正子さんも、オペラの中で登場人物になっていました。

若き日の田中恭一さんが、コンタクトレンズを自分ひとりの力で作ろうとしたとき、その材料となる合成樹脂を使うように提案したのが、会長夫人である正子さんの役割になっていました。

このストーリーは、実際はどうだったのでしょうか?

奥様に直接、お話を伺ってみました。

奥様のお話では、お二人の馴れ初めは、ミュージカルで描かれていた、若き日の発明家に材料を探し出して提供する、コンタクトレンズが生まれる一助を担った役割とは違ったそうです。

それはそれでいいのです。現実のままでは、オペラも芝居も、面白くなりません。

では、お二人の馴れ初めは、一体どんなだったのでしょうか?話しは続きます。


田中恭一会長の奥様は、八千草薫さん似の、お上品な方です。

田中恭一メニコン会長ご夫妻に、お二人の馴れ初めをお尋ねしています。

秘書の城戸洋子さんと埜田詩乃さんのお二人が会長ご夫妻の前に座っているので、ちょっとこのご返事は難しいのではないかと心配していましたが、田中恭一会長は、腕を組んで、深く呼吸をし、昔を思い出すかのように、ゆっくりとお話が始まりました。

ハードコンタクトレンズの製造が順調にいき、一般のユーザーにハードコンタクトレンズを販売するには、中間に各地の眼科医の先生の協力が必要となりました。

その中で大阪の眼科医の先生が、若き日の田中恭一さんの仕事ぶりや性格などを見込んでお見合いをお世話してくれたそうで、それが正子さんとのご縁の始まりです。

結婚して、エメラルド婚の50年を過ぎ、58年になるそうです。

奥様はお上品な方です。

誰かに似ていると例えれば、八千草薫さんのような雰囲気の方です。

朝日新聞のホームページでは、八千草薫さんのお写真が掲載されています。

質問は続きます。それでは、夫婦円満の秘訣は、どうでしょうか?

ストレートな質問の前に、私と奧さんとの出会いについてのお話をすることにしました。

取り出したのは、43年前の色紙に書いた、妻への五ヶ条の要求です。

この色紙を取り出し、ご夫妻にお見せしながら、内容を説明します。

①逆らわない

②健康に気を付ける

③愛想を良くする

④何でも相談する

⑤質素倹約をする

とこのような内容なので、これじゃあ、さだまさしの『関白宣言』のような要求で、

しかもさだまさしの『関白宣言』よりも前に言いだしています。

「これはちょっと無理でしょう。」と、会長夫人が驚かれています。

心配そうに、「守れましたか?」と奧さんに、意見を聞いています。

まぁ、ほどほどは守ってくれているとお話しすると、奥様は「すごい」と感心されました。

お互いに、忍忍が、我慢我慢が長く続く秘訣だとお話しすると、会長ご夫妻も納得されました。

田中恭一会長は、家庭では多くを語らず、要点だけを話されるようで、それでは説明にならないので、ある時点から会話が途切れてしまうそうです。

女性は記念日を大切にしますが、会長ご夫妻はどのように、記念日を過ごされるのですか?とお尋ねすると、

「うちでは、誕生日とか、お祝い事があるときは、外で食事会をします」と仰いました。

奥様も、今日の訪問には消極的だったようですが、話しが難しいコンタクトレンズのビジネスでなく、家庭の話しや、夫婦喧嘩の話しになっているので、段々と打ち解けてこられました。

随分昔ですが、テレビ番組「宮尾すすむのああ日本の社長」で、当時社長であった田中恭一さんの社長宅訪問を見ました。

あの時は、宮尾すすむさんが冷蔵庫の中を開けてメロンを発見するがいつものパターンでしたが、当時田中家では、冷蔵庫の中にはいつもメロンがあったのですか?とお尋ねすると、意外な答えが出てきました。


リキュールを作るのは酒税法違反だ、では梅酒も酒税法違反ですか?これには、国税局職員も困りました。

宮尾すすむさんの日本の社長の話から発展して、自宅冷蔵庫の中には何があったのかの話しです。

通常は、社長のお家の冷蔵庫には、高級メロンが出てくるのですが、田中家の場合は違いました。

冷蔵庫から出てきたのは、パッションフルーツです。

田中恭一社長は、コンタクトレンズの講演で、オーストラリアに行かれた時に、オーストラリアの眼科医の先生宅に招かれました。

そのお家で、珍しい果物を頂きました。それがパッションフルーツです。

当時、まだ日本では、こんな果物を見た事がなかったので、田中恭一社長は、大変興味をもって、「この果物はなんですか?」と尋ねました。

すると、眼科医の奥様から「パッションフルーツです 」と言われ、パッションの意味が情熱であるということも知りました。

そこで、眼科医の奥様は、田中恭一社長に日本に持ち帰るように、苗を手配してくれました。

その苗を日本に持ち帰り、パッションフルーツを頂いた時の種も持ち帰り、自宅に温室を作り、パッションフルーツの栽培を始めました。

田中恭一社長が、パッションフルーツに関心を持ったのは、パッションフルーツの味だけでなく、名前が情熱であるということです。

パッションフルーツを沢山栽培して、メニコンの社員の方に、中でも情熱を持って仕事に取り組んだ社員に、パッションフルーツの果実を感謝の気持ちとして渡そうと思い立ったそうです。

パッションフルーツのパッションには、情熱という意味だけでなく、キリスト教伝道する、宣教師が受けた受難という意味も含まれています。

情熱にしても、受難にしても、自らの信念を突き進んで行くには、情熱もあれば、受難もあります。

従って、田中恭一会長がパッションフルーツに大きな関心を持った動機は、情熱も受難も、双方意味が通じると思います。

その為には、パッションフルーツは、100や200個ではすみません。

温室の中でどんどん育てて、うまく育つようになると、間もなくパッションフルーツの実は1000個にもなるほど、たくさんの収穫が出来る様になりました。

更に、パッションフルーツの栽培を続けていく内に、一斗缶の箱が5個分ほど、大量の収獲が出来る様になりました。

パッションフルーツの栽培を続ける傍ら、社員の皆さんに情熱的な仕事をした人に、パッションフルーツを配りましたが、その配り方も、段々と工夫が入って来て、パッションフルーツでリキュールを作ったそうです。

これは頂く社員からも大好評で、やがてパッションフルーツをテーマにした講演や、新聞雑誌の記事が増えて、まだパッションフルーツが珍しかった日本で、その栽培家として、田中恭一社長の名前が広がっていきます。

パッションフルーツリキュールを知って頂くのは良い事ですが、その中に、国税庁の職員が、パッションフルーツリキュールについて異議を唱えるようになりました。

解りやすく言えば、酒税法違反です。

パッションフルーツを使ったリキュールは、アルコールなので、国の許可無く、お酒の製造は禁止されています。

酒税法では、飲酒用のアルコールを作って売る事はもちろんダメですが、他人に無償で差し上げる事も、違法行為になるそうです。

だったら、家庭で作る梅酒はどうなんですか?

梅酒は良くて、パッションフルーツのリキュールはなぜいけないんですか?

とこのように、国税庁職員と、田中恭一社長との酒税法談義がつづきました。

結局、税務署側の意見が折れて黙認となり、国税局の職員は、田中恭一社長のパッションフルーツリキュールを、酒税法違反とはしなかったそうです。

この話を、周りの皆さんは、大笑いをして聴きましたが、教訓はいくつかあります。

まず、

①オーストラリアでパッションフルーツと出会って、その味と名前に惚れ込み、日本でも栽培しようと思った事です。

②パッションフルーツを、自宅に温室を作ってまで、本格的な栽培に取り組んだ事です。

③パッションフルーツの名前の通り、情熱を持って仕事をした社員に、ご褒美としてパッションフルーツを差し上げた事です。

④パッションフルーツの果実から、パッションフルーツリキュールを作り、パッションフルーツの味わいの方法を広げた事です。

⑤例え、国税局職員であろうとも、梅酒と同じように、自宅で作るリキュールが、なぜ国税法違反になるのか、ちゃんと論理的な議論をして、国税局を納得させた事です。

こうしてみると、やはり田中恭一会長は、普通の人とは違う着眼点、発想力、好奇心、実行力、説得力を持っているように感じます。


メニコンの経営者としての立場は、一方では医療性を重視し、他方では営利性を追求する、難しい立場です。

メニコン田中恭一会長と、正子夫人との会話は続きます。

少しずつ緊張感はとれて、部屋の外に聞こえるほどの笑い声が続いています。

次の話題は、後継者育成の話題です。

正子夫人が嬉しかった事のお話です。

それは、現社長の田中英成さんが高校生の時、ある時期に、これまで進路について考えていた事を改めて進路変更して、医学部に進むと言ってくれたことです。

コンタクトレンズの普及を進めているとき、コンタクトレンズには医療性と、営利性があります。

営利性の場合は、ビジネスを推進していればいいのですが、医療性の場合は、医療機関の眼科医の先生や、医療行政の関係者との接触があります。

この場合、眼科医である事は、大変、医療性の話しを進めるに都合が良いそうです。

そこで、当時の田中恭一社長も、田中英成さんが医学部に進学すると言ってくれたときは、嬉しかったそうです。

そして実際に医学部医学部に合格したときは、お二人ともとても嬉しかったと仰っていました。

我が家の場合でも、三人の子供が医学部に進学し、全ての授業料が払い終わったときは、とても肩の荷がおりました。

そして三人とも国家試験に合格した時には、とても嬉しく思いました。

田中英成会長ご夫妻のお気持ちが、私たちにも良く分かります。

私が、社会人大学院に進んで、コンタクトレンズ業界に関わる研究のために、田中英成社長に何度か直接お会いして、インタビューをさせて頂いた事があります。

その時は、大阪府立大学の北居明教授がご一緒でしたが、北居明教授も、田中英成社長の経営学に対する知識と理解が深い事に、感心された事があります。

北居明先生の専門は、組織文化、経営理念、経営戦略などですが、

北居明先生の要請で、田中英成社長に、大阪府立大学で学部生の皆さんに講演をお願いして、大講堂で、メニコンの経営に関する応援をされた後、北居明先生は、田中英成社長なら、経営の分野でも、先生になれそうだと、私に話された事を思い出します。

田中英成社長は、メニコン社を経営するために、たくさんの分野の勉強をされているのです。

更に、一部上場企業となると、それを維持発展させるためには、新しい知識や情報を集め、理解する必要があります。

時間がいくらあっても足りないほど、追われていると思います。


メニコン田中恭一会長の社員教育は、担当先とのご縁を大切にするように指導しています。

メニコンの田中恭一会長ご夫妻の面談は、メニコンの50周年記念の時に、お話の記憶がありますが、ご夫妻が神戸の我が社に来られるのはこれが初めてなので、話す内容は多岐に渡ります。

次は、社員とその組織文化についての話しです。

2016年の4月から、営業本部長には森山久さん、営業副本部長には、九鬼真之さんが昇進されました。

二人とも、神戸営業所にいた時代には、我が社の担当を経験しています。

気心の知れた二人が、メルスを中心とするメニコンの営業を担っていく事は、私たちも応援したくなります。

九鬼真之さんは、新入社員の頃の話しですが、我が社を訪問してきたとき、私は水槽の掃除をしていました。

すぐ目の前で、私の水槽の掃除を九鬼真之さんは見ていて、掃除が終わると、商談に入って来ました。

このとき、黙っていたらいいのですが、つい本人のためにと思い、私から九鬼真之さんに、意見をした事があります。

訪問先で、面談の相手が、水槽の掃除をしているとき、

①黙って見ていて、終わるのを待っている人

②大変ですね、手伝いましょうか?と声をかける人

③黙って、一緒に手伝ってくれる人

大体、この3つのパターンになります。

得意先に可愛がってもらうには、どのパターンが良いのか、考えれば解る事です。

この忠告を聞いて以来、九鬼真之さんは、開眼したように、周囲に気を配れる人になりました。

誰かが教えてあげなければ、それはそうだとは気がつきません。

しかし、忠告すると、

①忠告する立場は嫌われる

②耳は貸すけど、実行はしない

③腑に落ちて、実行できる人になる

意見をすれば、嫌われるのが普通で、嫌われてまで、忠告したくなくなるのも普通です。

国内メーカー対、外資系メーカーの違いについても、話しが広がります。

メニコンの社員の方は、我が社との担当が外れ、他の地方に転勤した後でも、暑中見舞い、年賀状など、時候の挨拶や、中には近くまで来たのでと寄ってくれる社員の方もいます。

これに対して、事業規模の大きい外資系企業ほど、担当が外れると、関係性は薄れてきます。

特に印象的なのは、1995年の阪神淡路大震災の復興支援の時です。

国内メーカーの方は、献身的な支援をしてくれた事を思い出します。

この話しをすると、田中恭一会長は思い出したように、

震災の時は、メニコンが入居していた、柏井ビルが倒れた事を思い出されて、あのときは大変だったと、共通認識になりました。

田中恭一会長の社員教育は、得意先と末永く付き合うようにと、担当を外れても、またどこかでご縁が出来るかもしれないので、ご縁は大切にするようにと、指導をしているそうです。


田中恭一会長が選んだ、メニコンのCMモデルは、その後人気が上がる人が多いので有名です。

メニコンの田中恭一会長は、寡黙な人のように思っていましたが、実際にお会いして、寛いだ会話になってくると、少しずつ話しが弾んできました。

これも、コンタクトレンズに長い期間仕事として取り組んできた共通認識があるからだと思います。

次は趣味の話しです。

田中恭一会長は、絵画や工作物の、芸術的な創作活動がお好きです。

中でも達磨(だるま)の絵を描くのがお好きで、名古屋のメニコン社を訪問した時には、会長室にまるでアトリエのように達磨の絵が並んでいました。

Tシャツの袖口につけているのも達磨の絵です。

これは、アイロンで布地にプリントするように出来ているそうです。

仙台の瑞巌寺(ずいがんじ)に、達磨の絵のご縁で、瑞巌寺の和尚さんと達磨談義をされたそうです。

旅行もお好きのようで、海外にも行かれています。

田中恭一会長が海外旅行を提案すると、まるでこの指とまれのように沢山の人が会長の元に集まるそうで、

一つの海外旅行に、各方面から希望者が集まり、多いときは25名にもなるそうです。

広告代理店などの旗があつまるととても賑やかで、ハワイ・ヨーロッパなどや、中国の少林寺にも出かけたそうです。

奥様は、ご主人とだけで旅行に行けるのかと思ったら、まるで団体旅行になっていて、本来なら旅行の首席随員なのに、実際は後ろの方から遅れてついて行かれているそうで、そんな、わいわいガヤガヤの楽しい旅行なら、私も行きたいですとお願いしたら、皆さん大笑いです。

メニコンのテレビ広告は、随分と前から始まっています。

テレビコマーシャルのイメージキャラクターの選択眼はとても確かで、さすが、よく見えるコンタクトレンズビジネスです。

メニコンのCMに出演すると、その後、有名になった俳優さんがいます。

例えば、浅野温子さん、観月ありささん、河村隆一さんなどが浮かんできます。

浅野温子さんはとても人なつっこい性格で、

田中恭一さんが社長の時代、社長にとても親しく接してくれたようです。

ただし自己管理はしっかりしていて、食事に誘っても、外食をすると栄養分を摂りすぎて、顔が大きくなるので、モデルとしてはまずいという事で、外食はお断りして自宅で計算されたカロリーの食事を守っていたそうです。

現在では、有村架純さんがメニコンのイメージキャラクターに起用されています。

田中恭一会長の話しでは、有村架純さんは、写真よりも実物の方が遙かに可愛いそうです。

田中恭一会長の選んだとおり、有村架純さんは、最近どんどん人気が上昇し、NHKの朝ドラ「ひよっこ」にも主演が決まっています。

有村架純さんの等身大パネルは大変な人気で、我が社にも、有村架純さんのパネルを使用しなくなったときには、是非下さいという声が寄せられています。

テレホンカードが制作されていた頃は、CMモデルのテレホンカードを大量にメニコンから頂き、メニコン製品を購入して頂いた方にお配りしていた事を思い出しました。

今はテレホンカードがなくなったので、人気俳優の販促品の製作は、リーフレットくらいしかありません。


田中恭一会長から、『道一以貫之』の色紙を頂きました。

『道一以貫之』の本を頂いて、田中恭一会長の考えは理解しています。

そこで、この文字を色紙に書いて頂くようお願いしました。

突然の要請に、田中恭一会長は少し考えて、その上で快諾してくれました。

周りに女性が取り囲んでいると文字が書きにくいと冗談を言われていましたが、次は筆です。

マジックでは書きにくいようで、コシの柔らかい毛筆を選ばれました。

田中恭一会長が書きやすいように、皆さん声を潜めて、目をそらして、しばらく静寂が続きます。

これまでの人生の中で、辛かった事はないでしょうか?と質問をすると、何もなかったそうです。

それは、何かに取り組んでいるときは、終わりがないそうで、挫折もありません。

終わりがあると思えば失敗があり、失敗が苦労になり、辛い事と感じるわけですが、

終わりがなければ、成功するまで続いている、必ず成功するまで続ける。

このように思えば、失敗はないそうです。

以前、給与に添えて(社長メッセージ)に、ニクソン大統領の言葉として、同じような事を紹介した事があります。

ニクソン元大統領の言葉も、田中恭一会長の言葉も、相通じるところがあります。

松葉博雄の奧さんは、お茶を点てて、皆さんに抹茶を差し上げました。

もうそろそろ、お帰りの時間が迫ってきました。

抹茶を飲みながら、気持ちを落ち着けて、今日の面談の終わりとします。

当初、外出がお嫌いという、奥様のお話でした。

今日の我が社への訪問も、田中恭一ご夫妻の間では、ご一緒するかしないか、意見が揃わなかったそうですが、結果的には、奥様は今日、こちらにお邪魔して良かったと言われました。

これまで、お若いときは、お一人で各駅停車に乗り、気の向くままに国内旅行を楽しんだり、飛行機に乗りたいと思ったら、海外にも、気の向くまま出かけられたそうですが、段々と健康が気になり、もしも、万が一の事を考えれば、以前のような気ままな一人旅は、最近は控えておられるそうです。

メニコンの取引先は、全国で何千軒もあります。

都道府県別に、一ヶ所ずつ訪ねてみても47都道府県があります。

これからは、四国の巡礼のように、取引先を訪ねて、お二人で回られたらどうでしょうか?

きっと、取引先の皆さんは、大歓迎されると思います。

このようなお話をしていると、正子夫人からは、松葉博雄と奧さんの話は、夫婦漫才をしているようですねと言われました。

有難うございます。

お二人の会話が途切れたときは、松葉博雄夫妻を呼んで頂ければ、漫才をしにお伺いしますと、また爆笑です。

せっかく来られたので、さんプラザコンタクトレンズの店舗と松葉眼科の診療所もご覧になって下さいとお誘いして、ご一緒して頂きました。

エレベーターホールで、歓迎田中恭一会長のポスターを背に、記念撮影です。

今日は、楽しいお話を聞かせて頂き、有難うございました。

機会がありましたら、是非またお越し下さい。


メニコン田中恭一会長の、さんプラザコンタクトレンズ店舗訪問です。

メニコンの田中恭一会長が、さんプラザコンタクトレンズの本店営業部を訪問するのは、今回が初めてです。

社員の皆さんには、前もって、田中恭一会長のご訪問を伝えていますが、若い社員の皆さんにとっては、伝説の人 コンタクトレンズの神様 とも言われる、田中恭一会長が、すぐそばに来られる事の実感は湧いていません。

さんぷらザビル3階の店舗前に田中恭一会長をご案内して、記念に並んで写真を撮らせて頂きました。

奥様の正子夫人も、取引先の店舗を訪ねることは、60年振りの事です。

田中恭一会長は有村架純さんの等身大パネルを見つけ、そちらのほうに歩いて行かれました。

そして、すぐそばで、じっと有村架純さんの顔を見つめて、何か、感じるところがあるようです。

そこで私が田中恭一会長のそばに行って、ここの等身大パネルはとても人気があって、インターネットのオークションでは、かなりの高値で出品される事があります。

とお話しすると、田中恭一会長は、本物の方がもっと美人ですよと言われました。

次は、眼科の診療所前です。

診療中で患者様も多くいらっしゃったので、医院の中には入りませんでした。

なかなか広いところですねと、田中恭一会長は言われたので、

まだ他にも店舗があるので、あとで他の店舗もご案内しますと、言いました。

田中恭一会長は深い考えがあるので、ご自分の目の手術を、ある医療器具が出来る迄、その医療器具が厚生労働省から認可されるまで、伸ばしています。

この話を聞いた後なので、田中恭一会長が、まだまだ高齢者の為に、ご自分が何かを尽くしたいというパイオニア的精神に、イノベーションを起こす起業家的精神に感心しました。


松葉眼科を見て、さんプラザコンタクトレンズ本店前で、記念撮影です。

田中恭一会長が、熱心にさんプラザコンタクトレンズを視察している姿を見て、

奥様の正子夫人も、ご一緒に撮って頂きましょうかと、記念写真の中に入って頂けました。

一般に、夫が会社で仕事をしていると、その妻は、家で家事をして夫の帰りを待つパターンと、

夫婦が共働きしているパターンと、

夫婦が職場でも一緒に働くパターンがあります。

田中恭一会長の場合は、創業のごく始めの部分だけご一緒のようでしたが、

創業の後は、正子夫人は会社経営に関わりがあまりなかったようです。

今日の我が社への同行についても、当初は気乗りしなかったようですが、

コンタクトレンズの創業期の話しや、お互いの共通する家庭の問題などを、話している内に、少しずつ緊張がほぐれてきました。

これから新神戸駅に向かって、新幹線で名古屋に帰られます。

その途中までお見送りをして、ご一緒しています。

3階からエスカレーターで1Fに降りるとすぐ前に、さんプラザコンタクトレンズのセンター街店が見えます。

こちらの方にも田中恭一会長に寄って頂き、中を見て頂きました。

社員の皆さんにとっては、田中恭一会長のお姿を見るのは初めてなので、なるべく沢山の社員に、田中恭一会長自身と会って、顔を合わせる機会を作りたいと思いました。

田中恭一会長は、大きなウィンドウでメニコンのメルスプランを紹介する、モニターを見つめておられます。

後ろに機器もないのに、画像がガラス面に出るのは、不思議なようです。

プロジェクターで投影している事を説明すると、納得されました。

さんプラザコンタクトレンズのあちらこちらで、メニコンの製品、メニコンのメルスプランを、熱心に販売活動している姿勢をご覧になって、頷いておられました。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です