アメリカ軍上陸 沖縄の終戦 昭和20年6月23日 沖縄恩納村遺族会 沖縄戦後史当時の恩納村の写真 今は平和な恩納村 第85回沖縄訪問(4)
アメリカ軍上陸 沖縄恩納村遺族会の沖縄戦後史を読み、アメリカ軍上陸当時の恩納村の写真を見ました。
【沖縄の伝統行事と伝統的文化に触れて、ますます沖縄の心が好きになりました その4】
朝起きてみると、少し曇りです。雨が降っていないだけ、マシです。
さて、今日は何をしましょう?
海を見てみると、波は穏やかで、あまり荒れていません。
今日は海に行く予定はないので、まず、朝日会に行きました。
昨日、冨着信常さんから、
「朝日会で沖縄そばを作るから、来ませんか」という、
朝ご飯のお誘いがあったのです。
朝日会で、沖縄そばを頂くことにしました。
前兼久魚港に行って見ると、ダイビング客が集まっています。
沖縄そばを湯がいて、そばを作ります。
卵を溶いて卵焼きを作り、
豚肉の3枚肉の代わりに卵を乗せます。
なかなかいい味に出来ました。
ネギを刻むのは、松葉博雄の担当です。
朝ご飯を頂いた後は、
金城千賀子さんのお店に行きます。
アメリカ軍上陸 恩納村
お店には、沖縄の戦争の時の歴史の本がありました。
見せて頂くと、当時の沖縄の状況が蘇ってきます。
国際通りの終戦直後の状況です。
アメリカ軍が読谷から上陸して、
恩納村に攻めてきて、日本が降伏した頃、
山に篭っていた人達が、どんどん降参して出てくる写真がありました。
皆さん、収容所に入れられました。
アメリカ軍が、読谷の海に上陸しているところの写真です。
この本は、恩納村の遺族会が発行しています。
第二次世界大戦では、終戦間近には、
沖縄が、戦場となり、本土よりも先に攻撃され、
多くの民間人が戦争の犠牲者になりました。
こういう大変な思いがあったことを忘れてはいけません。
ひめゆりの塔は、その悲惨な戦争の代表的な事例ですが、
ここ恩納村にも、アメリカ軍が上陸し、
洞窟や洞穴に立てこもって、隠れたいた民間人と軍隊とが、
一緒に攻撃されて、多くの戦死者が出ています。
アメリカ軍上陸は昔のことになってしまいました
沖縄の終戦当時の遺族会が発行した写真を見ていると、
クレアちゃんが側にいました。
クレアちゃんは、昨日は熱を出していましたが
、昨日よりもちょっと元気そうです。
金城千賀子さんのお店の後は、
山城利雄さんのお家に行って、
沖縄訪問のご挨拶をしてきました。
山城利雄さんは、昨夜は、清明祭で、お墓の周りで、
ずっと遅くまで門中の人達とずっと飲んでいて、
やや飲みすぎたようで、
今朝は起きたばかりだということでした。
その後、米須勇さんの畑に行きました。
ゴルフ場の裏にあります。
パッションフルーツ、ドラゴンフルーツなどを作っています。
以前、2005年8月に米須勇さんの農場に、
登川喜永さんが案内してくれたので、
今回は、道を覚えていて、自分で訪ねることが出来ました。
第1回目の収穫は終ったみたいで、
たくさんパッションフルーツが並んでいます。
採れたてのパッションフルーツを少し頂きました。
出荷できないようなB級品は、真っ二つに割って、
中の果汁だけを取り出して、冷凍しておくと、
しばらく持つそうです。これでゼリーを作ります。
米須勇さんの農場は、ワンちゃんが留守番役をしています。
見晴らしの良い、高台にある畑です。
ここも、沖縄県から補助を受けて、農場を切り開いています。
パッションフルーツの温室は、温度が33度あります。
パッションフルーツの栽培は、
1つ1つ人工授粉をしていかないといけないので、お世話が大変です。
夜は、電気をつけて、促成栽培をします。
農園の側では、ヤギも飼っています。
農作業場に作っている建物の2階から見る景色は素晴らしい景色です。
遠くに東シナ海が見えます。
農家の仕事は、天気との戦いであり、台風との戦いでもあります。
台風が来ることが分かると、
大急ぎでテントをビニールを外すことになりますが、
大抵植物は、台風にあうと、商品価値がなくなります。
苦労話をお聞きして、少しだけ体験農業をしてみることと、
専門家との違いを考えてしまいました。
2007年4月16日(月)