恩納村前兼久の歴史を守る 前兼久鎮守の神様に新年のお詣り

恩納村前兼久の歴史 前兼久鎮守の神様に新年のお詣り 第176回沖縄訪問(13)

恩納村の歴史

新年には、前兼久の鎮守の神様に、

前兼久の新しい年の安寧をお願いします。

この恩納村前兼久の歴史を調べてみました。

下の写真は恩納村の村役場です。

恩納村の政治・行政はここを中心に行われています。

恩納村集落の歴史は、1672年に読谷山間切から8ヶ村、

金武間切から4ヶ村を分離して

恩納間切が発足したのが始まりです。

間切(まぎり)とは、沖縄における、

琉球王国時代の行政区分のひとつです。

概念としては、琉球王国全土を

現在の日本全国と見立てた場合における都道府県にあたります。

金武から分離したのが名嘉真・安富祖・瀬良垣・恩納で、

読谷山からが谷茶・冨着・仲泊・読谷山(後の山田)・

久良波・真栄田・塩屋・与久田になります。

「琉球国由来記」によると、前兼久村が出来て、

久良波・塩屋・与久田の名前は消えています。

そして、幾つかの村の合併や分離などを経て、

現在の字となっています。

恩納村前兼久の歴史

前兼久(メーガニク)は仲泊の北、

冨着の南にある恩納村のリゾート入口となる集落です。

前兼久にあるムーンビーチは県内でも名が知れたビーチです。

あのビーチは、他の土地から砂を運んで作ったビーチだと、

土地の人から聞きました。

前兼久の発展のスタートとなったのは、

ムーンビーチホテルの建設からでした。

前兼久の歴史は冨着から別れたと言われ、

かつての冨着集落から見て、

前方の兼久地(砂堆地)にあったから

そう呼ばれるようになったといわれています。

沖縄の呼び名では、メーガニクと呼ばれていました。

前兼久集落の聖地は、「沖縄国頭の村落(下)」によると、

①御嶽 ②前兼久トゥングヮ ③イチグシク ④シーサームイグヮー ⑤アガリカーニー

(カミヤー)⑥ウーガー ⑦ナカヌカーがあります。

**

「琉球国由来記」には「前兼久根神火神」という名が見えます。

出典: 『琉球国由来記』(1713年)
   ウィキペディア(Wikipedia)

 

恩納村前兼久年始詣

恩納村前兼久地区では、毎年地区の年始詣があります。

戸主が家を代表して、前兼久の鎮守の神様のお堂の前に集まります。

前兼久の井戸の水の神様へお詣り

その後みんなで移動して、

前兼久に古くから伝わる井戸に集まって、

水の神に新年のお願いをします。

水道がない頃、前兼久の皆さんは、

この井戸から湧く水が生活の頼りでした。

今日は水の神様にお参りしましたが、

明日は海の神様や、

久高島の祖先に新年のお願いをすることになります。

前兼久鎮守の神様へお詣り

神社に集まったら、

そこで集落の皆さんはお酒とオードブルを頂いて、

宴が始まります。

一度に集落の皆さんと会えるので、

お参りはとても便利です。

私も、もう十年以上も新年のお参りに来ているので、

皆さんとはすっかり顔なじみです。

顔を見ると、この後家に飲みに来なさい、

食べに来なさいと誘ってもらえます。

年始の行事は、区長の先導で進行します。

区長は、金城正則さんが勤めています。

前兼久の鎮守の神様に、

お祈りをささげたあとは、

お下がりのお米をいただきます。

この米を持ち帰り、

家のコメに混ぜてご飯を炊きます。

そうすると、家内安全のお守りになります。

お酒も出ます。

オードブルも用意されています。

ここで軽く一杯やってから、

それぞれが各自で本格的な酒盛りになります。

戸主がお参りに参加するのが、一般的な習慣です。

女性が戸主の場合は、女性の参加もあります。

前兼久の人口は、およそ800人です。

ここにきている人たちが、前兼久の有力者たちです。

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2020年1月1日(水)


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