大磯港を作ったのは、三洋電機の井植歳男社長です。
大磯港の周辺で、今も残っているのは、お好み焼きの小磯です。
明石海峡大橋が完成する前は、神戸から淡路島に渡るには、淡路フェリーボートを利用していました。淡路島出身の三洋電機の社長・井植歳男さんが、故郷の淡路島と、ご自分が住んでいる、神戸塩屋のジェームス山とを船で結ぼうと考えて、神戸側は須磨に、淡路側は大磯にフェリーボートの港を作りました。
今となっては、大磯港はフェリーボートも通わない、寂しい漁港になってしまいました。
淡路フェリーボートが就航していたころには、フェリーボートの発着場には、多くのお店がありました。
船の時間待ちをする人たちのために、喫茶店や、食堂があったのです。
ほとんどのお店は、今は閉店しています。
今でも残っているのはわずかで、その一つに、お好み焼きの小磯があります。
小磯がフェリーボートの時代に営業していた時、私は息子を連れて、時々このお店を利用していました。
その頃は大賑わいの店だったので、おかみさんと会話することはありませんでした。
私は奥さんを神戸に残し、息子と淡路に遊びに来ているので、息子の食事は私の責任になります。
ご飯を炊いて、食事を作ったこともありますが、遅くなって大磯に着いたときは、小磯に入って、焼きそばとか、そばめしなどを注文していました。
今の小磯は、フェリーボートの顧客がいなくなったので、地元密着型のお店に変わっています。
ほとんどのお客さんは、すぐ近くの顔なじみの人が中心です。
大磯港は、漁港に戻って、蛸漁業が盛んです。
タコをとるには、タコツボを沈めていれば、タコはちょうどいい塩梅の寝床があると、先を争って、たこつぼに入ってきます。
たこツボの向きが安定するように、蛸壺には底辺が作られていて、だるまさんの重しのように、一定方向に沈むようになっています。
漁師さんは、ひとつにつながったタコツボの塊を、船で沖に沈めて、しばらくしてタコツボを引き揚げに行きます。
たこつぼには、餌は入っていません。
繰り返し、繰り返し使えるタコツボで、タコは何度でも取れます。
たこの寿命は、わずか1年か1年半程度です。
わずかな間に、たこも成長して、子孫を残す相手を見つけ、卵を産みつけて、卵からたくさんの小蛸が育っていくころには、親だこは死んでしまいます。
これは、タコにとっても、寂しい一生です。
子孫を残せば、もうタコの一生が終わってしまうのです。