宍粟の山崎藩には、今も陣屋が残っています。酒蔵には杉玉がぶら下がり、「今年の新酒が出来ましたよ」と教えてくれています。

宍粟市ツアー(3)

大名と呼ばれたかったら、一万石以上の殿様になることです。米一石は150㎏です。一万石は1,500トンです。つまり、1,500トンのお米が採れる広さの田んぼを領地とする事です。

凄く良い天気です。こんなお天気を秋晴れの小春日和というのでしょうか? 正起の鮎料理を食べた後、直ぐ側に流れる揖保川の辺に出ています。中国山脈の水源から少しずつ集まって来た水が、この先播磨灘に注ぐ川の流れが、ここから見えます。

正起では揖保川で釣ってきた鮎を買い受けて、生簀に入れ生かしています。この鮎は囮としても釣り人に売られています。2012年の鮎の囮の価格は、1匹600円です。

網ですくって鮎を指で触ってみると、鮎が育った揖保川の苔の香りが、鮎の両脇に染みこんでいます。

鮎はとても繊細な心を持っているため、人影を見ると狂ったようなパニック状態になります。そのため、鮎を生かす生簀は上から蓋をして暗くし、人影が見えないように配慮されています。

生簀には鮎とは別に、川の鮭と言われる、鮎とは違った魚が生かされていました。すくい上げて見ると、川魚とは思えないような大きな口で、小さな歯並びがぎっしり揃っていて、これで川の苔を食べるのかなぁと思います。

今日は平日だからか、お客様はほとんどいません。夏ならノンアルコールビールを飲んで川床でしばらく川風に吹かれて昼寝をするところですが、横になってみると、さすが10月では昼寝をするのに風が寒すぎました。

宍粟市の山﨑は交通の要所だったので、ここには江戸時代に姫路藩の支店とも言える、山﨑藩がありました。幕末の頃は石高一万石なので、陣屋が置かれていました。今日は昔の山﨑藩の陣屋があった辺り、古い町並みを見てきます。

そもそも山﨑藩の始まりは、姫路藩 初代藩主 池田輝政の四男 輝澄 が 元和元年(1615年)3万8千石を与えられ鹿沢(山崎)に陣屋を構え、山﨑藩が姫路藩から独立、立藩したそうです。

調べてみると、山﨑藩は殿様がしょっちゅう変わっています。変わる度に石高が小さくなり、最大6万8千石で、1679年~1871年までは1万石で、明治維新を迎えています。

山﨑町の旧民家を代表する建物は、格子造りの白壁で、瓦の屋根がずっしりと重たそうな酒屋さんと、その酒蔵です。こんな景色はどこかで見たと考えついたのは、赤穂坂越です。

酒屋さんの玄関口に、蜂の巣の様な丸いボール状の杉の玉が出ると、これは新酒が出来ましたという合図です。その名前は、杉玉もしくは酒林と呼ばれています。

徳川幕府が作った幕藩体制では、幕府には300諸侯と言われる大名がいました。大名と言われるには、所領の石高が一万石以上であることが条件で、一万石未満であれば大名ではありません。大名になれば、自分の藩が持てて、お城か陣屋が持てます。

陣屋で思い出すのは、織田信長の子孫で、織田家を幕末まで継承した織田有楽斎です。この織田有楽斎の陣屋は、兵庫県丹波市の柏原にありました。

この日の夜は、旬彩蔵で買った野菜と、A・COOPで買った妻鹿港 昼網の魚です。

アコウを煮るには、塩分控えめを心掛け、砂糖・みりん・お酒を多くし、醤油を控えました。

海老も同じ様に、塩分控えめの味付けです。

アコウと一緒に炊いた炊き合わせのネギは、旬彩蔵で買ったネギです。

今日の近隣ツアーで行った山﨑町には、直ぐ近くに腰痛地蔵尊が祀られています。お参りするときは新しい藁草履を履いて、草履の腰の部分を踏み、使った草履は誰も履かないように鼻緒を切っておくのだそうです。

お参りして腰痛が治ったという人が沢山いるということで、遠方からも多くの人がお参りされるようなので、次の機会に行ってみたいです。

2012年10月25日(木)