阪神淡路大震災 30年前の思い出【社長経営学】<特別編⑤ 最終回>

投稿No:10143

1月17日は 阪神淡路大震災 30周年記念日【社長経営学】<特別編④>   本篇は、「社長経営学」の震災関連の記事を「特別編】として紹介しています。    特別編①  特別編⓶  特別編③  特別編④

私がやります

これからすることは移転先の確保です。

知っている限りのチャンネルを利用して、

空いているビルの中で店舗となる場所を

確保しなければなりません。

まず、社長である私が顧客、取引先、

従業員、コンタクトメーカー、金融機関、

近隣の方々に対して、

再建を始めるという意思表示を

伝えていくことから始まります。

大震災に遭って、倒れても、

起きられる人が、まず立ち上がる。

そして、コンタクトを求めている

被災した人たちに対して、

レンズの供給とサービスの提供を

始めなければなりません。

これまでの市場リーダーであった

神戸そごうの東京メガネは、

ビルが倒壊してユーザーへの

支援活動は無理のようでした。

ユーザーへの支援は「私がやります」と

意思表示をすることによって、

メーカー支援を得ることができます。

噂では、全国から神戸の市民に対して、

援助物資の提供やボランティアの

申し出が多く寄せられているようでした。

まずコンピューター

再建を始めるにあたり、

顧客に対してメッセージを発信するために、

まずはコンピューター(PC9450)の

復旧から取り組まなければなりません。

震災直後に見た店舗では

コンピューターが床になぎ倒され、

このままではきっと動かないと思いました。

再度起動させるためには、

開業時に店のシステムづくりを依頼した

ソフトハウス社の岡本社長の協力が必要でした。

岡本社長は神戸の震災に対して

大変心配してくださり、なんとか駆けつけて、

コンピューターを使えるように

復旧させてみるというお約束をいただきました。

一部は線路伝いを歩いて、

三宮まで来ていただくことになります。

言葉では表せないくらいにありがたく感じました。

8日目(1月24日)空き店舗の争奪戦

神戸市役所の1階ホールが

情報交換の中心地になっていました。

家族、友人の消息を求めて貼り紙がホールに掲示され、

それを見るために、

多くの市民が集まって来ていました。

私もそこへ貼り紙をしました。

この日は有馬から、出社してみました。

神戸電鉄が動いていないので、

バスに乗って三宮まで長い時間をかけて、

渋滞の中たどり着く方法しかありませんでした。

廊下でカセットコンロを使いお湯を沸かし、

暖をとって待っていると、

メニコンの安永幹夫さん、

アルファの槇隆司さんが

それぞれ支援物資を持って応援に来てくれました。

電車は途中までしか動いておらず、

大阪方面から来る人は阪急であれば

西宮北口で止まります。JRなら芦屋です。

そこから線路を伝って歩いて

三宮までやってきたそうです。

寒い中、線路を歩くのは大変なことです。

そこで、メニコンはバイクを西宮北口に配置し、

バイクで三宮まで走るという対策を取ったそうでした。

暗い洞窟のようなビルの中で、

レンズ室を整理することから始まりました。

倒れた器具や什器、備品を起こし、

使えるものと使えないものとを区別しました。

この日の重要な課題は移転先を探すことです。

取引先からの紹介を頼りに、

クレセントビル、今西ビル、リクルートビル、

金沢ビルなどを訪ねて回りました。

今西ビルは前日下見をしたビルです。

移転先の候補の中には

証券会社から紹介をいただいたビルもありました。

候補のビルを歩いて訪ねていって、

空き室と賃貸条件を確かめてみました。

さんプラザビルからなるべく近く、

無傷のビルと言えば、

神戸市役所の周辺に集まっています。

そこで、市役所の近くを1軒1軒見て回りました。

神戸に支店、営業所を置いていて、

震災で新たな拠点を

探さなければならない企業が多くあるようです。

このため、大手企業を中心に

移転先確保の争奪戦が激しくなっていました。

すでに大手の企業が

空き室を押さえていることが、多くありました。

ビルの管理人の方やオーナーの方と連絡を取ることも、

骨が折れる状況でした。

少しでも時間が経過するとビルが埋まってしまう、

という焦りもありました。

1軒1軒歩いていく途中に

目ぼしいビルがあれば

ノートに控えて、連絡を取ってみる方法を考えました。

損傷があまりなく、すぐに使え、そして空き室、

というのはなかなか難しい条件なのです。

社員の出勤が始まる

従業員の中で竹内くんと

まだ連絡が取れていません。

そこで安否確認のために

歩いて住宅まで訪ねていってみました。

中央区中山手に住んでいたので、

坂道を歩いて履歴書に書いてある

住所を探し歩きながら、

アパートをやっと見つけましたが、

あいにくと竹内くんは留守でした。

鍵がかかっていないので中に入りましたが、

帰ってくるのか、どこかに避難しているのか、

それもわからない状態でした。

しばらく待ってみても戻らないので、

心配していることや、

連絡方法を紙に書いておきました。

部屋の様子だと竹内くんは

ここで生活をしていることがわかりました。

元気でいれば、まずは連絡をしてほしく思いました。

1人ひとりの従業員の安否がとても気になります。

この日から社員の中で出勤できる人が、

少しずつ出社を始めました。岡本に住んでいる

男子社員の小山くんが今日から出社してきました

小山くんもいろいろとダメージを受けたようで、

かなり落ち込んでいるように見えました。

9日目(1月25日)メーカーからの支援

震災支援で欲しいのは人手です。

社員の全員とはまだ直接の連絡が取れず、

少人数の社員で震災の

片付けをするには人手が足りません。

停電により照明は消え、廊下は薄暗く、

近くの窓から自然の光が差し込むあいだ、

陽が昇る朝から陽が沈む夕方までは、

復興作業を進めることができました。

廊下の角を曲がり、窓から遠くなるほど明かりは暗くなり、

暗い場所に行くと不気味さを感じます。

水道の水は止まっています。

お湯を沸かすにはペットボトルで

いただいたお水が頼りでした。

誰が支援に来られるかわからないので、

ひたすら待っています。

もし誰かが来てくれても社長の私がいなければ、

せっかく線路を歩いて寒い中を

来ていただいた甲斐も無いことになります。

そこで、やはりじっと待機している時間も必要でした。

せめて私の代わりの留守番が欲しいところです。

チバビジョンの杉山部長が支援に来られました。

過分なお見舞金と飲み物、食べ物などの

支援物資をいただきました。

このように、わが社と社長の状況を確認するために、

メーカーの担当者や上司の方が、

震災お見舞いに来られるようになりました。

「できるだけ応援をしたい」と

ありがたい言葉をいただいています。

しかしまだ、救援活動をいただく時期ではないのです。

移転先の仮設店舗が見つからなければ

荷物の整理すらできません。

本社が東京・大阪・名古屋にある

取引先や各地の倉庫、流通在庫場所には

震災による被害は出ていませんでした。

メーカー各社は神戸を中心に取引先の支援を行い、

そこを通してユーザーに商品を供給し、

一日でも早く通常の流通に戻したいという意向がありました。

今のところ被災したコンタクト販売店で、

メーカーの期待に応えて、

すぐにでも立ち上がれる販売店はないようです。

いずれの販売店がいち早く立ち上がり、

被災したユーザーの皆さんのサポートができるのか、

メーカーも状況を見ていることが伝わってきました。

「先んずれば人を制す」のことわざのとおり、

早く起き上がり、

早くユーザーへの救援を始めた企業に

メーカーからの支援が集中しそうです。

メーカーの方から支援の申し入れがあり、

どのようにこれを受け入れていくか、

どの会社に何の役割をしていただくか、

わが社ができることを

考えていく必要性を感じました。

今は必要なものを調達できるお店もほとんどなく、

欲しい物があっても買うお店がありません。

しかし、何か活動をするためには、

まずはお金が必要であることは普段と変わりません。

少しでも手元にお金を置いておかなければ決済ができません。

普段から、いくらかは会社に現金を置いていました。

ところが、今は治安が平静ではないので、

現金を持ち歩いていると危険なこともあります。

どこに預けておくのが安全なのか、

気にしつつ、急にお金が要ることにも

備えなければなりません。

銀行業務も少しずつ回復し稼動を始めたので、

銀行の貸金庫に行き、大切なものを預けました。

治安はそれほど危険なことはないのですが、

銀行が少しずつ本来の機能を

回復しつつあることに安心しました。

うれしかったのは東京の姉から

支援の連絡があったことです。

もし再建に資金が必要な場合は、

応援したいという申し入れでした。

今、とくにお金に困っているわけではありませんが、

このような申し入れには勇気が湧いてきます。

10日目(1月26日)社員が復帰

安否確認のために、

先日訪ねていった竹内くんが出社してきました。

実家が加西市なので、一時避難していたそうでした。

眼科のほうも、だんだんと

スタッフの安否がわかってきて、

復旧のためにと出社してくれるようになったので、

4階の倉庫を整理することから始めました。

大切なものが入っていることと、

倉庫を整理しておかなければ、

店舗の荷物を移すスペースがないからです。

息子と一緒に倉庫のドアを開けてみて驚きました。

頑丈そうに見えるスチール棚が、

まるでプラモデルの骨組が折れたような崩壊状態で、

積み上げていた荷物が辺り一面に散乱していました。

書類、荷物、商品、在庫品が

重なってグチャグチャになり、

一歩も入ることができません。

今日のところは、入り口付近に

人が出入りできる状態までにしかできませんでした。

一方支援のほうは、

メニコンから安永幹夫さんが鉄道線路を歩いて、

今日も応援に来てくれました。

気になる店舗の情報、知っている方、

被災をしている方、

負傷を負った方などの話題が

会話の中心になっていました。

今のところ亡くなった方や、

生死に関わるような深い傷を負った方は

おられないとのことでした。

被災情報は今とても大切なのです。

業界の被災情報は、各社とも大阪で集約されて、

そこから神戸へ還流していました。

11日目(1月27日)難航する移転先探し

エクセレントビルを借りたいと、

東洋信託銀行に電話してお願いしました。

取引先であるメニコン、東レからも

口添えをしてもらいました。

借りたい会社が多いようで、

メニコン、東レから依頼のことは聞いているが、

すでに考えている賃貸先があるとのことでした。

三宮では移転先確保は難しいので、

元町のほうにも歩いて探しに行きました。

目に付いたビルはどこも空いていません。

毎日毎日、歩いているうちに、だんだんと寒さもあって、

足が痛くなってきました。

どこを回っても、目ぼしいビルは塞がっていて、

もう移転先確保は難しいことに気がつきました。

眼科の院長と相談し、

候補の中の一つである今西ビルならどうだろうかと、

もう一度検討しました。

今西ビルは市役所の南西側にあり、

JR三ノ宮駅からは少し距離があります。

賃貸条件はかなり高いといえます。

しかし、今は非常時です。

条件交渉はできる状態ではありません。

なんとか移転先を見つけなければ、

再建は始まらない状況があり、

暗いムードが続いてしまいます。

思い悩んだ末、今西ビルへの移転を

決断したのは翌日のことです。

臨時電話に長蛇の列

NTTが設けた臨時電話に群がる人たち(朝日新聞社提供)

12日目(1月28日)やっと電話回線復旧

震災が起きてから感じたことは、

通信ができないことは

孤立したようなものだということです。

家庭用・ビジネス用に取り付けられている

電話回線は有線なので、

復旧を待たなければどうにもなりませんでした。

電話回線復旧には優先順位があるはずです。

どのような順序かはわかりません。

早くお願いするための連絡さえできない状況でした。

そこで、ビジネスフォンを購入した

富士通ビジネスシステムの営業所に出向いて、

直接責任者に頼んで、頼んで、

なんとか優先順位を繰り上げるようにお願いしました。

知恵を絞って医療の社会性を訴えた甲斐があって、

他に優先して電話の復旧工事に来てくれました。

気になっていたのは、

私たちを頼っているお客さまの

コンタクトを確保したいという

要望に応えることです。

店舗へ訪ねて来られた方もいたと思いますが、

さんプラザビルは入り口で閉鎖していました。

お客さまから多分たくさんの

問い合わせ電話が来ていたと思います。

今日まで回線が不通状態でしたが、

これで会社の電話がつながるようになります。

お客さまと1本の線でつながったことを

とってもうれしく思いました。

13日目(1月29日)息子に見せた親の背中

非常時には責任者は

どのように対応したらいいのか、

危機管理を教えるチャンスです。

これほど親として子供に

実地で教える機会はめったにありません。

そこで中学3年生の長男にはこの先、

生涯に一度あるかないかの、

震災復興作業を体験させることにしました。

息子の通っている

岡山白陵中学の校長先生に

電話で状況を説明して許可をいただき、

しばらくは息子を私のそばに置いて、

震災復興の作業現場を見せるようにしました。

10日間ほど私と一緒に有馬で寝泊まりして、

私の行動を見せてきましたが、

もうそろそろ学校に

戻らないといけない時期になりました。

息子は今年高校進学の時です。

受験生

突然の震災のために、

受験に大きな動揺を与えました。

しかしこれをなんとか乗り越えて、

逆境に打ち勝つようになってほしいと思っています。

三宮市街地の瓦礫の中で、

私はヘルメットをかぶり、

目には防塵グラス、口にはマスクをし、

肩にリュックを背負います。

息子は、私の出で立ちが異様なので、

少し距離を置いてついてきていました。

同行者として見られることに

抵抗感があったようでした。

災害時の社会勉強は机の上で、

本を読んで学べるものではありません。

実践を見て、自らの体を使って、

少しでも倒れたものを起こし、

困った人を助けるような学習をさせました。

とてもおもしろい有意義な体験になりました。

14日目(1月30日)早い者勝ち

いろいろと悩みました。

お金の問題やら、移転先が

三ノ宮駅から遠い距離の問題が原因です。

しかし、非常時には適切な決断を少しでも早くしないと、

他人が横から物件をさらってしまえば後の祭りです。

トランプゲームをしているようでもあります。

いま出ているカードを選ぶか、見送るか、

このような選択です。

結果は後でしかわかりません。

わかった時には後の祭りです。

ここがおもしろいところです。

そこで移転先を今西ビルにすることに決めたので、

そのための手付金を銀行から振り込みました。

今西ビルの3階すべてを借りることになりました。

広さは70坪ぐらいあります。

ここに眼科とコンタクト販売店が同居します。

今日はメニコンの河内茂治部長が

名古屋から支援のために、わが社へ来られました。

神戸駅から三ノ宮駅までは、

未だ不通が続いています。

JR六甲道の駅はまだ壊滅状態のようです。

阪急三宮駅周辺(筆者写す)

従業員にも不安あり従業員の顔色は暗いままです。

無理のないことです。

移転先がはっきりしない、

従業員自身も震災による大きな被害を被っている、

先の暗い中で仕事らしい仕事はありません。

冬の陽は早く暮れ、着ているものも黒っぽく、

街の明かりはほとんど消え、

黒とか暗いムードに

神戸の街は包まれているように思えました。

電灯がなければ4時にはもう周りは暗くなり、

夜がやってきます。

せっかく歩いて三宮になんとかやってきて、

会社に着くのが12時前後、

それから3~4時間すればもう夕暮れです。

何をするために職場にやってきたのか、

わからない状態でもありました。

このような時には人間性が出てきます。

普段は秩序があっても、

このような乱世には崩壊し、

それぞれの個人的な粗野な性格も出てきます。

今、電力は限られた容量しかありません。

その限られた容量の中で、

自分のためにだけ電気ストーブをつけると、

ブレーカーが落ちてしまうことがあります。

全体のことを考えるか、

個人のことを考えるかが問われています。

男子従業員の1人は、

してはいけない電気ストーブをつけて、

自分だけ1人で暖まっています。

これではわずかな電力の許容量を超えて、

すぐにブレーカーが落ちてしまいます。

かといって、このような行為を叱ることもできません。

なぜなら今は平静な時ではないからです。

退職者が出る

何人かの従業員から辞表が出ました。

将来展望がないだけではありません、

通勤ができないのです。

とくに女性の場合は交通手段が止まってしまうと、

徒歩で来ることには大きな障害がありました。

早く来て、早く帰らないといけないのです。

帰りが遅くなれば、今は冬なので日が沈むのが早く、

暗い市街地は危険な状態ではないかという、

保護者からの心配がありました。

無理もありません。

そのような中でも出社を続けてくれる従業員に、

感謝の気持ちがいっぱいです。

15日目(1月31日)明と暗と 

再建は個人の力ではとても難しく、

神戸市、兵庫県、政府の力を借りなくては難しい状態です。

しかし再建までの間、

どこでビジネスの立て直しをするのかは、

各企業が考えなくてはいけません。

なんとかつてを頼って、

さんプラザビルから移転して

今西ビルに仮設店舗を構えますが、

災害時無傷の店舗は少なく、

少ない店舗の争奪が起きて

賃貸の相場は非常に高騰しています。

普段は1千万円で貸してもらえるところが

3千万~5千万円ほどに高騰し、

敷き引きの条件も、通常は1割のところが

5割取られることもあります。

しかし店舗を確保しないわけにはいかないので、

被災後2週間経過した明日2月1日に

引越し2月2日には

なんとか仮店舖をオープンできるようになりました。

昨日手付金を振り込んだことで、

ビルの鍵を受け取ることができました。

今日31日は家主から敷金と

2カ月分の家賃を振り込むようにと、指示がありました。

これで明日から入居することができます。

さっそく移転の準備に取り掛かることになりました。

運搬には、トラックや自動車は使えません。

人力による人海戦術をとらざるを得ません。

そこで、各メーカーさんに連絡をし、

応援を依頼しました。

これは前向きな活動と言えます。

おもしろくなってきました。

なにしろ目標ができたのですから、

ここからは明るい日差しが見えるように思えました。

しかし一方では暗い話が続きます。

今日もまた頼りにしている社員から、

退職の意思表示がありました。

今は止めることもできません。

今まで築いてきたものが、

波にさらわれる砂の城のように、

崩れていくことを辛く思いました。

16日目(2月1日)人海戦術 

大地震の影響で神戸の街は大変混乱しています。

その中で引越しをすると言っても、

トラックとか機械は使えません。

ほとんど人海戦術に近い、

人手によって運ぶしかありません。

まず、今西ビルに持っていく

機械・事務用品・レンズ・備品を仕分けします。

エレベーターエスカレーターは

電気が停まって動きません。

荷物を手で持って、抱きかかえて、

あるいは数人で担いで、

ゆっくりと階段を使って

3階から1階まで降ろしました。

運搬用の手押しの台車は3台ありました。

台車のスペースは小さいので、

載る範囲内でゆっくりと運ぶことになります。

途中はでこぼこになったアスファルトの道、

あるいは段差のある道、

あるいはレンガやタイルなどで、

ガタガタ揺れました。

光学機械には振動はよくないことですけれど、

これしか方法がありませんでした。

何メートルもあるカウンター台などの家具は、

両端を台車に載せて、

バランスをとりながらゆっくり運ぶことになります。

これは、途中でずれたり、

はずれたりするので運動会のように、

双方の呼吸がうまく合わなければ

長い距離は運べません。

運動会は笑ってすみますが、

震災の引越しは笑っている場合ではすまなかったのです。

各社の期待の神輿に担がれて

ニチコンさんからは宮脇理さん、

大和幸樹さんを含む7人と、

一番たくさんの方が

手伝いに来てくださいました。

メニコンさんは菱田孝二所長、

安永幹夫さんを含む6人、

ボシュロムさんは嶋岡邦寿さん、

チバさんからは伊藤益雄さん、

塩谷さんを含む5人の方が応援に来てくださいました。

アルファからは槇隆司さんです。

槇さん、宮脇さんは

精力的によく活躍してくれました。

現場では指揮が取れる人と、

言われたことをする人に、

やはり分かれてきます。

判断力がある人や皆さんを使いこなせる人が、

周囲から自然に指示を求められ

指揮を取っていく立場になります。

皆さんに応援に来ていただいても、

十分なおもてなしはできませんでした。

お昼を食べることも、

近くにやっとできた

屋台で食べることが精一杯でした。

元町の南京町まで歩いていくと、

中華街にたくさん屋台のお店が出ていました。

朝から始まった引越しは、

お昼も続き、そして夕方までかかりました。

とりあえず必要な器具、検査器具を持っていき、

足りなければ、近くなので、

また改めて取りにくることにしました。

持っていきたい器具の中に、

倒壊によって使えなくなった

光学機械などもありました。

幸いレンズはロッカーに収まったまま、

すべて販売可能な状態でした。

ロッカーを台車に積んで、今西ビルへ運びました。

たくさんの人や台車が行き交う中で

行ったり来たりを繰り返して、

何度も往復して荷物を届けました。

店にも医院にも、たくさんのカルテがあります。

ダンボールに小分けして、

1人で1個持てるぐらいの重さにして、

抱きかかえて運びました。

カルテは何万枚もあるので、

すぐに使える状態に整理しておかなければ、

後からもう一度整理することは

神経衰弱になりそうなほど大変なことです。

段ボール箱にマジックインクで番号をつけ、

順番どおりに運び、順番どおりに受け入れました。

眼科とコンタクトの従業員を2班に分けて、

1組は田野主任の指揮の下でカルテなどを持ち出し、

もう一方は今西ビルで受け入れる担当に分けました。

荷物が届いたら、

そのまま上に積みあげるのではなくて、

すぐに使えるように配列をしていきます。

なんにもないところに一つ一つ置いて、

眼科診療所とコンタクトレンズ販売所の

両方を作っていくことになります。

こちらはこちらでまた大変です。

レイアウトを考えながら、

荷物の置き場所を指示します。

「これはどこに置きましょうか」

「これはどうしましょうか」と尋ねられた

その瞬間に「それはそこに置いてください」

「これはあちらに置いて」と、

即決していきます。

2つの現場で同時進行的に、

移転と新店舗の設営が行われていきました。

移転した今西ビルに荷物を運び込む(筆者写す)

引越し済んで日は暮れて

明かりのないところでは

日が沈むと仕事は終わりです。

ニチコンさん、メニコンさんのメンバーを中心として、

たくさんの方に協力いただきました。

皆さん、寒い中で黙々と作業してくださり、

とっても助かりました。

今日はこれで終わりという夕方、

明日から今西ビルのほうで

お客さまの受け入れがほぼできる状態になりました。

今だからこそ思えることですが、

たった一日でよく引越しがで

きたものだなと感心します。

これも火事場のなんとかというか、

震災のなんとかでしょうか。

すべて人力で行いました。

機械も車も使わないで、

人と人の連携と協力により、できました。

皆さん、どうもありがとうございました。

引き続き明日もお手伝いいただける方を中心に、

お家に帰らなくてもよい人、

帰れない人たちに、厳しい仕事の疲れを

有馬に行って癒してもらうことになりました。

部屋の制限もありましたが、

借りたゲストルームに詰めていただいて

寝るということで、

8人の方に泊まってもらいました。

後日、今日のことを

忘れないようにと記念写真を撮りました。

アンケートはがき

神戸の市街地では、

まだお風呂に入れる状態ではなかったのですが、

有馬のマンションはいち早く温水管が復旧し、

お湯が通ることになりました。

震災後わずか半月あまりのこの時期に

温泉に入れるということは、

とっても贅ぜいたく沢なことでした。

何もおもてなしはできませんでした。

修学旅行の夜のように、

皆さんでワイワイ、ガヤガヤと、

今日一日の話をしているうちに、

また明日何をするかという話になりました。

今日一日、皆さんありがとうございました。

移転した今西ビル前景。震災のため、未回収のごみが山積みにされていた(筆者写す

営業再開 

皆さんのご協力のおかげで、

今西ビルへの移転がなんとか完了し、

仮設店舗で営業を再開できる状態になりました。

この日、早くも初めてのレンズの販売がありました。

街に貼ったポスターを見て、

店舗を探して来ていただいたお客さまでした。

皆さんお困りの時なので、

これまでより大幅に値引きした

震災復興特別割引価格です。

震災以前に比べるとわずかな金額でしたが、

さっそくレンズの購入に来ていただいたことを、

これからの励みとしたいと思いました。

おもしろくなってきました。

今西ビルで営業していることを、

これまでのお客さまにお知らせするために、

街に出てビラを貼って歩きました。

私はここに居ます

震災の後、お互いに連絡手段がないため、

ポスターを壁や電柱に貼るような原始的な方法で、

それぞれの状況を伝える貼り紙の掲示が許されました。

ポスター用紙は神戸市が用意してくれました。

タイトルは「私はここに居ます」と、

最上段に赤地に白抜きで表示されています。

情報が少ないとき、

紙に書いて人が集まる所に掲示をして、

かすかな期待を胸に読んでもらうのを待つという方法です。

携帯電話はいつか電池が切れ、

水をかぶったり落としたりすると使えなくなります。

そうなると、時間と距離と場所をつなぐ

デジタル文化は成立しなくなります。

物に書いて、狭い地域で相手に直接読んでもらう

アナログの方法が復活していました。

震災当時は通信がズタズタに寸断されていた上に、

今のように、携帯電話や

インターネットが普及していませんでした。

情報は、自分の足を動かして発信するしかありませんでした。

三ノ宮駅前の横断歩道の信号機や

大きな筋や通りの電柱など、

お客さまの目に入りそうなところに目星をつけて、

なんとか私たちが元気で

営業を再開したことを知ってほしくて、

何枚も何枚も手分けして、

透明ビニールテープで貼って歩きました。

従業員の通勤途中、取引先の担当者が

訪問してくる道すがらにもお願いしました。

ポスターを書くのは私の任務となり、

腕が痛くなるほど書きまくりました。

これが意外に効果を発揮し、

さんプラザコンタクトレンズと松葉眼科が

どこにいったのか、探していた方の目に止まり、

新しい移転先へわざわざ

訪ねてきてくれる誘因となりました。

取り壊し再建か、補修か

一方、さんプラザビルをどのようにするか

という集会が何回か開かれ、3つの案に集約されました。

1の案=現状をできるだけ生かし、最低の補修で再建を図る

2の案=すべて取り壊し、立地を生かして新しい高層ビルに建てなおす

3の案=被害の少ない基礎を生かしてその上に新しいビルを建てる

復興委員会が組織され、

役員が任命され、

ビル管理会社と今後の進むべき

方向を何回も討議しました。

役員となった方は

ご自分の店舗の再建だけでも大変なのに、

全体のビルの再建をめぐり

多くの関係者の利害がぶつかる中で、

一つの選択に意見をまとめていかなけ

ればなりませんでした。

どの方法も良いところもあれば、」

不利なところも出てきます。

1案は、できるだけすぐ

にビジネスに戻りたいという気持ちがこもっています。

早くお店を開けてお客さまを失わないように、

日々の現金収入を得たいという焦りは誰にもありました。

2案の全面的建て替え案は、多大の経費を要します。

神戸市が主導して建て替えすることになりますが、

誰が、どのフロアを確保できるのか、

配置替えの結果ではお店の将来が大きく変わり、

ひいては存続問題にまで発展する問題となります。

しかし、これは災いを転じて福となす、

絶好の機会であるとも言えます。

いつか老朽化するビルは、

なかなか全面的に建て替える機会はありません。

すでにさんプラザビルは、

老朽化の問題がジワリジワリと出ていました。

一気に最新のインテリジェント・ビルに

変えることも可能だったのです。

3は中間案ですが、現実的ではありません。

設計事務所や建築会社が強度計算を行い、

上にどのくらいの荷重がかかっても耐えられるか、

という答えが出た中での話ではないのです。

したがって、この3案は希望的な案となります。

いつまでも、あれがいい、これがいいと

「会議は踊る」というわけにもいかず、

いつかは結論を出さなければなりません。

そこで、区分所有者集会が招集され、

多数決で決することとなりました。

院長と私は眼科とコンタクトレンズ

販売店を代表して出席しました。

ビル管理者側の説明を聞き、

それぞれの意思決定を行うために、

投票がなされました。

その結果、現状を生かし、

最低の補修で再建を図るという1案が、

賛成多数で採択されました。

この決議に沿って、

管理会社はこれから再建の見積もりを行い、

直ちに工事に取り掛かることに決まりました。

そもそもこのビルは、

神戸市都市計画総局が主体となり、

日建設計が設計し、

竹中工務店が施工したので、

今回の補修再建も設計図を管理している関係上、

竹中工務店になりました。

今日2月2日はこのように

さんプラザビルがどのような形で

復興するかが決まった重要な一日でもあり、

とても長い一日でした。

震災直後の復興への取り組みは、

一旦ここで終了です。

このあと、震災後の新しい市場リーダーを目指して、

熾烈な企業間競争が始まります。

おわり

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