コンタクトレンズの変革期 イノベーション(技術革新)の連続 おかげで 多くの新規顧客の獲得 

投稿No:9641

ソフトレンズの登場 新製品のおかげで 多くの新規顧客の獲得 【社長経営学】シリーズ 20

←社長経営学19 「どのように軌道に乗せたか」

コンタクトレンズの変革期 イノベーションの連続

メニコン心斎橋

1950年代に現在のメニコン、ニチコン、シード

等を中心とした国内企業がハードレンズの普及を始めました。

1968年のコンタクトレンズのユーザー数は

約150万人と報告されている。

(日本コンタクトレンズ協会編,1997)。

ハードレンズは素材が硬いために、

ユーザーにとっては異物感が問題でした。

メニコン心斎橋

1970年代になると、

親水性の樹脂を素材とした

ソフトレンズがボシュロムにより商品化され

わが国でも販売されました。

素材が柔らかく装用感も良いことから、

従来のハードレンズの装用が

異物感の問題で耐えられなかったユーザーに

代替商品として受け入れられ、

コンタクトレンズ市場はさらに拡大することとなりました。

1989年のユーザー数は約800万人と報告されています。

(日本コンタクトレンズ協会編,1997)。

市場が拡大したことで、

創業して数年から需要が急激に増えてきました。

コンタクトレンズの製法は、

1)レースカット製法、

2)スピンキャスティング製法、

3)モールディング製法の3つに分類されます。

1)レースカット製法とは、

棒状の樹脂をボタン状に細かく切断し、

これを主として旋盤で切除・研磨する製法です。

2)スピンキャスティング製法は、

材料をのせた凹面型が垂直軸を中心に回転し

薄く伸ばす製法です。

3)モールディング製法は、

材料を受け皿に入れ上から押し型で

形を整えて製造する方法です。

コンタクトレンズの製法

この製造方法の違いで、

ソフトレンズの大量生産が可能になってきました。

ハードレンズ イノベーションへの取り組み

1970年12月、網状構造のPMMAの開発により

直径8mmの「メニコン8」が誕生しました。

1974年9月、メニコン田中恭一社長は、

「装用感のよいソフトレンズだけでなく、

安全性の高い酸素透過性のハードレンズも、

レンズメーカー、ユーザーに提供するべきだ」と考え、

「酸素透過性ハードレンズ」開発に取り組みました。

1972年度、メニコンの売上高が10億円を超え、

ちょうどその10年後の1981年、

売上は100億円を突破しました。

とりわけ1979年に発売された

「メニコンO2」によるところが大きかったと言えます。

テレビ広告の効果もあって

これまであまり売れなかったハードレンズが

神風が吹いたように売れるようになってきました。

メニコンの連続的新製品開発

1982年11月「新素材」では研究開発中の

ソフトレンズ素材や

高酸素透過性ハードレンズ素材についての発表が行われ、

中でも「メニコンO2」に続く

高酸素透過性ハードレンズ素材の

発表は大きな話題を呼びました。

1986年5月に、世界初の連続装用可能な

高酸素透過性ハードレンズ

「メニコンEX」を発売しました。

ソフトとハード どちらが眼に安全なのか 

この頃、すでに他社から発売されていた

高含水ソフトレンズによる

障害例が海外で報告されるなど、

日本でもその安全性が問題視され始めていたため、

「メニコンEX」への注目に拍車をかけました。

これ以降、コンタクトレンズの

本格的な連続装用時代の幕開けとなりました。

他社も一斉に酸素透過性ハードレンズを市場に投入。

各社は、よりDK値の高いレンズ開発を競い合い、

「DK値戦争」と称されました。

ソフトレンズ イノベーションへの取り組み

1960年頃、米国では、

ボシュロムが素材を型に流して

固めるような量産方式を開発、

急成長を始めました。

だが、この製造方式は装置産業なので

巨額投資がいることになります。

メニコンは、ハードレンズのように

固体を切削するのが最も高精度な

レンズの製法と自負していたので、

ソフトレンズの生産に

も切削研磨方式にこだわりました。

1970年、吸水性の樹脂の2HEMAの素材を使い、

水を含まない(ドライ)状態で加工し、

その後、水を含ませて柔らかい

(ウェット)状態にする方法を確立しました。

しかし、ドライ状態での加工は、

研磨に関して、従来の研磨剤では素材が水分を含んで

研磨中に膨潤するという問題が発生しました。

多種多様の研磨機と溶剤の組み合わせ

・配合実験などを繰り返し、

新たなソフトレンズ専用の油性研磨剤の開発に成功し、

この問題を解決しました。

ドライ状態からウェット状態にする工程以降では、

それまでにないソフトレンズ特有の問題に直面し、

多岐にわたった研究開発が行われ、

ソフトレンズ製造方法が確立したのです。

1971年に国内他社に先んじて製品発表したが、

結局1972年末に各社横並びの認可になりました。

1972年10月、治験認定を受け、

12月にメニコンを含めて国内7社が

同時にソフトレンズ製造(輸入)承認を取得しました。

1973年1月、「メニコンソフト」を発売しました。

ハードレンズ イノベーションのこだわりと行き詰まり

1991年、「メニコンEX」の

2倍の酸素透過性を実現した、」

より安全な、光学性、装用感をトータルに

レベルアップした理想的なハードレンズを目指し、

連続装用が可能なレンズとして、

「メニコンスーパーEX」を発売しました。

1995年8月、「メニコンZ」の製造承認を取得し、

2年後の1997年9月に発売。

1988年から、それまでに積み重ねた技術力を生かし、

新たなチャレンジとして

「究極の素材」開発に取り組んできた。

その素材による新レンズが「メニコンZ」です。

時代はソフトレンズから

使い捨てレンズへと

移行する転換期を迎えていた。

国内市場では使い捨てレンズを中心とした

ソフトレンズの急伸により、

ハードレンズは苦戦を強いられてきました。

また、連続装用可能なソフトレンズも販売され

ハードレンズの優位性が徐々に薄れてきたのです。

1996年頃から市場における

使い捨てレンズの普及にともない、

顧客からの使い捨てレンズの

指名買いが徐々に増加してきました。

その対策としてメニコンは、

同年11月、チバビジョン社と

1Week連続装用タイプの

使い捨てレンズの供給契約を締結し、

翌1997年6月から「メニコンニュービュー」の

販売に踏み切ったのです。

1970年から登場したソフトレンズは

ゆっくりと普及してきた時代でした。

ソフトレンズの市場リーダーは

アメリカ企業のB&L(ボシュロム)社でした。

ボシュロムジャパンの

初代社長鳥越浩さんの実家は神戸眼鏡院でした。

鳥越社長はわが社の

初代社長鳥越浩さんは、

わが社の顧問公認会計士の山本甲子男先生と

神戸大学で同窓だったご縁で、

山本先生と一緒に新規取引のお願いを兼ねて

ご挨拶に来られました。

社長のトップセールスだったことと、

社長の地元の神戸の最初の取引先となったことで、

最恵取引先待遇をしていただくことを

条件とした契約をし、ボシュロムの

ソフレンズを扱うことになりました。

ソフトレンズ登場の影響

ソフトレンズは一枚21,000円でした。

ソフトコンタクトレンズは

素材に水分を含んでいるので、

レンズに付着した雑菌が繁殖しやすく、

感染症などの重い目のトラブルの

原因になることがあります。

そのために、毎日の消毒が必要なのです。

当時、厚生省はソフトレンズの消毒方法は

煮沸消毒の方法しか認可しませんでした。

そのため、専用の煮沸機も必要でした。

両眼と煮沸器セットを合わせると

一式5万円を超える価格になりました。

ソフトレンズの登場でコンタクト市場は

装用希望者が増えて、大きく成長しました。

ハードレンズの買い替えサイクルは

通常3年程度と言われていますが、

節約のため5年、10年と

長期間使い続けるのが実勢でした。

煮沸消毒方法の弊害

ハードレンズは一度購入すれば無くなるまで、

傷がついて使えなくなるまで、

耐久消費財のように扱われていました。

早いサイクルでの再購入は見込めませんでした。

これに対して

ソフトレンズは使用による劣化が進み、

白濁による寿命は2年程度で、

買換サイクルは早くなりました。

ソフトレンズは親水性なので,

目の涙もレンズに吸収されます。

涙には、たんぱく質があり

レンズのタンパクが残るのです。

タンパクに、熱を加えて消毒すれば

タンパク熱変性が起きて、

レンズが濁り、カールしてくるのです。

この防止のためにタンパク除去剤が必要でした。

付属品は消耗材であり、レンズも劣化が早いので

買い替えサイクルは早くなりました。

ソフトレンズの登場と、ハードレンズの改良が

相乗効果となって、売上高は逓増してきました。

今は、液体消毒が当たり前、

さらには使い捨てが当たり前の時代になっていますが、

1970年代のソフトレンズは、

同じレンズを1年、2年と使い続ける時代でした。

破損による再購入も多くありました。

ハードレンズにも眼障害

これまでのハードレンズは

酸素を通しませんでした。

角膜に酸素を供給できなければ

酸欠状態になって、

酸素を求めて血管新生が起きて来たのです。

目の表面の角膜は酸素を必要とします。

長時間レンズを使用することで

酸素不足になるので、酸素を求めて

黒目の周辺から

新しい血管(血管新生)が生まれてくるのです。

血管が黒目の内部に向かうと

視力に影響が起きて来ます。

そこで酸素を通す素材の

ハードレンズが各社から開発されました。

1979(昭和54)年発売の

メニコン酸素透過性ハードレンズO2(オーツー)、

つづいてO2-32はテレビ広告の効果もあって

新しく買い替え効果を発生させました。

これらの新製品のお蔭で、

既存顧客の買い替えと、

多くの新規顧客の獲得ができました。

顧客が増えてくれば

これまでの施設では手狭になって来ました。

人でも必要になってきました。

さんプラザビルのテナントなので

施設を思うように広げることはできません。

急激なイノベーションと需要の拡大に対して

新たな問題に直面し苦悩し続けていました。

社長経営学 シリーズ 21へ続く

社長経営学 関連記事 アーカイブ