飛躍のチャンスは突然 店舗を拡張し顧客人数は逓増 経営が安定 【社長経営学】シリーズ 21

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飛躍のチャンスは突然 店舗を拡張し顧客人数は逓増 経営が安定 【社長経営学】シリーズ 21

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飛躍のチャンスは突然やって来ました。

コンタクトレンズ小売業の社長として、

事業発展の大きなチャンスについてお話ししましょう。

管理会社や不動産会社に店舗拡張の意向を伝えて

協力をお願していた効果が現れたのです。

1982(昭和57)年4月1日

新500円硬貨が発行された日に

未公開情報が入ってきました。

三ノ宮の景色

創業しておよそ10年、やっと、

飛躍のチャンスが訪れたのです。

近隣の事務所が空きそうなのです。

そこは日本生命の関連会社である

星和地所の事務所でした。

事務所は他に移ることになったので

20坪の店舗を賃貸に出すことになりました。

仲介は最初にお世話になった植戸不動産です。

41年前の賃貸不動産の相場です。

20坪で、敷金(権利金)は3,000万円、

家賃は一か月30万円、

敷き引きは入居期間5年未満で敷金の20%引き、

10年未満で10%引きが賃貸条件でした。

希望者は数名いたので

手付金を収めた早いもの勝ちです。

急なことなので敷金の他に店舗改装費、

設備資金など計5千万円の資金が必要ですが

手持ち資金では間に合いませんでした。

三和銀行三宮支店の

担当者である坂本さんに相談すると、

坂本さんが私の事業計画に納得して、

これまでの信頼関係から

即決で融資を通してくれました。

信用金庫、相互銀行では即決は難しい時代でした。

三和銀行をメインバンクにしていて良かったです。

次は店舗争奪相手との交渉です。

おもしろい案が浮かびました。

頭を巡らして考え、

ライバルだった店舗争奪相手に

金銭解決の方法として

見舞金を渡す案を持ち掛けると、

同意してくれて入店を諦めてくれました。

これで店舗拡張ができました。

この機会に眼科と協調して、

土曜日の診察時間を

午前だけから午後5時までに延長し、

併せて日曜・祝祭日の休日を止めて開店し、

木曜を定休日としました。

従業員から強い反対が出ましたが、

飛躍のチャンスだったので

従業員を説得して決行しました。 

同じころ眼科医院にも

診療所拡張のチャンスが訪れていました。

眼科の隣はパン屋さん、

カスカードの事務所でした。

パン屋さんが大阪に

事務所を移転すると言う情報が入りました。

条件が合えば事務所を大家さんに

返しても良いとのことでした。

仲介は植戸不動産で大家さんは

眼科医院と同じく泌尿器科の山本先生でした。

条件とは、移転のための費用負担の支援、

いわゆる「立ち退き料」でした。

大家さん、パン屋さん、仲介不動産と私の4者が協議して、

私の提示した案で、

パン屋さんが納得して話は収まりました。

眼科医院と販売会社の

医療の眼科と販売のコンタクトレンズ販売店を別々にする

医販分離体制が整い、

眼科とコンタクトを併せて18坪の広さから

眼科38坪コンタクト20坪、

併せて58坪の広さに広がりました。

こうなると夢は広がります。

もっと、拡張したくなってきました。

長らく広告規制に縛られていましたが、

新店舗ではJR線から見える店舗の窓ガラスに

大きな文字で窓広告が出来るようになりました。

夜間照明も付けたので、

良く目立ち、広告効果も上がり

顧客人数は逓増して来ました。

市場の変化に対応して施設を拡張できたことで

経営は安定してきました。

1989(平成元)年、

神戸大学眼科の医局長であった兄賢一が

母の跡を継いで松葉眼科の院長に就任しました。

私は兄に、将来のために

眼科を医療法人にするように進言して、

顧問公認会計士の上田先生と相談して

医療法人「松栄会」を設立し、

兄が初代理事長に就任しました。

天の時 地の利 人の和

事業が成功するには、努力だけでは済みません。

天地人が必要なのです。

コンタクトの普及期と重なった「天の時」、

三宮の繁華街を選んだ「地の利」、

そして周囲の皆様に助けられた「人の和」により、

おかげさまで当地の一番店に、

全国でも上位にランクされるような成長ができました。

どうすればお客様が喜んでいただけるだろうかと考えて、

実行し、それが思ったようになると、

商売はおもしろいなと改めて思いました。

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