コンタクトレンズの需要期が来ると確信 取引先の選定は、【社長経営学】シリーズ 13

投稿No:9609

起業準備  コンタクトレンズの歴史 仕入れの取引先の選定【社長経営学】シリーズ 13

コンタクトレンズの原理は、

レオナルド・ダ・ヴィンチが考案した(1508年)とされ、

その後、ハードレンズの素材と技術の進歩により、

医学的な実証研究が進みました。

(日本コンタクトレンズ協会,1997)。

実用への応用は

コンタクトレンズの実用化を促したのは

兵士、飛行士など戦闘員の

視力の回復が戦争の遂行のために

国家的要請として求められたのです。

その後の戦後復興には、

進学や女性の社会進出があり、

視力の回復だけでなく、

眼鏡とは異なる性能、容姿からのニーズ

が求められるようになってきました。

1970年代からのソフトレンズの普及期には、

知識労働者の増加が視覚から情報を得るため

長時間装用の必要性が高まり、

誰もが装用可能な

装用感の良いレンズの開発の背景となったのです。

情報の80%は視覚から

現代人の学習、情報収集、娯楽、通信等の発達は

その情報の吸収は8割ほどは視覚に依存しています。

眼の酷使は、幼年時から生涯に渡り、

受験勉強、マスコミからの情報、

パソコンは小型化し、

スマホでの通信機器の普及により

視覚の役割はますます重要に成るとともに

眼の酷使は止まることがありません。

知識労働者の社会では、

視機能は、加齢により近視から遠視へと変化もあり、

コンタクトレンズによる視力の回復は

一生の間続く重要な問題となっています。

私が、コンタクトレンズで起業を考えた時は

1970年代の始めでしたから

視力の回復の重要性は未だ社会的には

これから、コンタクトレンズの

需要期が来ると確信しました。

神戸での競争企業の目星もつきました。

取引先の選定

我が国のハードレンズの

製造・販売会社のリーダーは

東洋コンタクトレンズ(現メニコン)と

日本コンタクトレンズ(現ニチコン)の2社が

市場のリーダーでした。

まだ、外資系企業は

日本に進出していませんでした。

メニコンの主な得意先は

眼鏡店を母体としたコンタクトレンズ専門店

地域の先進的眼科などが販売ルートが中心でした。

神戸では

そごう百貨店の東京メガネ

大丸百貨店の神戸眼鏡院

国際会館の国際コンタクト(眼科医経営)などでした。

大阪では、

阪神百貨店のハマノコンタクトが

突出した有力なコンタクト販売店でした。

ニチコンは一般眼科ルートが中心でした。

ニチコンの創設者は、

水谷眼科医師であったことから

日本各地の眼科医師と提携し

コンタクトレンズを医療機器として捉え

大学病院の眼科、市民病院の眼科、

個人の眼科医院などを中心に

販売活動をしていました。

どちらと提携しようか?

ここは判断が大事と、

どちらに相談の声をかけるか

情報を集めて、分析し

しっかり考えてメニコンを選びました。

メニコンを選んだ理由は

メニコンに成長の勢いがあったからです。

メニコンは田中恭一さんが創業者です。

田中社長は販売は社員に任せて

得意先訪問、新規販売先開拓なでには

ほとんど、関与していませんでした。

田中社長にお会いできるようになったのは

その後のことです。

(過去ブログ:メニコン田中恭一会長と田中正子ご夫人のご夫妻の来訪

1951年からハードレンズの製造・販売を始め

1957年には新たな工場を建設し法人化しています。

1958年から名古屋駅前にある毎日ビルの

中2階に直営相談所を開設し、

提携眼科医と医販分離の第一歩を始めていました。

医療法上では医師は

物を売って利益を得てはいけない、

非営利性の原則があります。

そこで医療と販売は分離して、

眼科とは別のコンタクトレンズ販売会社を設立して

眼科の相談室でコンタクトレンズ装用希望者の

眼科検査、検眼を行いレンズの規格を決定します。

レンズの販売は、

眼科とは別法人の販売会社が行います。

医療と販売の分離の

経営モデルをとっていました。

この経営モデルは全国に拡大し、

経営主体は百貨店にテナントで入店していた

大手の眼鏡店が中心でした。

眼科主体の経営モデルか、

販売店主体の経営モデルか、

ここが、選択の中心課題でした。

或る日思い切って

当時のメニコン大阪営業所を訪ねてみました。

応対してくれたのはその後も

お世話になった塚本弘昭所長さんでした。

塚本所長に神戸ならどこに販売所を

開設すれば売れるのか、

準備は何が必要なのか、

など知りたいことを

質問して教えてもらいました。

販売店に眼科診療所が併設されていること、

若い女性が集まる繁華街の商業施設が

繁盛店の条件であることが分かりました。

そうなると松葉眼科を

住宅地の垂水から、

繁華街の三宮へ移転することが

成功要因になります。

とは言っても

移転は大変なリスクを伴うことです。

院長である母の説得をして

三宮へ移転するメリットを熱心にはなしました。

それには、しっかりとした事業計画が必要でした。

具体的な開設場所を見つけた訳ではないので

休日には三宮商店街を一人で歩いて

店舗を探す日が続きました。

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