特攻隊 九死に一生 水上爆撃機『瑞雲(ずいうん)』の搭乗員飯井敏雄中尉の生涯
九死に一生 水上爆撃機『瑞雲(ずいうん)』の搭乗員飯井敏雄中尉の生涯とは、波乱に満ちた生涯でした 『命どう宝』伊平島に慰霊塔
九死に一生 水上爆撃機『瑞雲(ずいうん)』の搭乗員飯井敏雄中尉の生涯
伊平屋島に橋で繋がった、小さい島がありました。
島の名前は、野甫です。
野甫は、伊平屋島から橋を渡れば、
一つに繋がっています。
そこで見たものは、
太平洋戦争の終わりの頃、
捨て身の戦いで、アメリカの
軍艦に特攻して、
亡くなっていった若者達の慰霊塔でした。
水上爆撃機『瑞雲(ずいうん)』野甫の慰霊塔
伊平屋島からは、
野甫は下の写真ような景色に見えます。
よく見ると、野甫の高台に
何か建築物がある事に気がついたので、行ってみました。
それが慰霊塔です。
慰霊塔には、『雲流れる果てに』と書かれていました。
その時は、深い内容は分からないまま、
九死に一生 水上爆撃機『瑞雲(ずいうん)』の搭乗員 書籍『命どう宝~飯井敏雄の生涯~』
命(ぬち)どう宝
1945年 日本は戦に敗れました
健康で英知に富む若者たちは
海軍航空隊を志願し 散ってゆきました
彼らは 自分の未来に 何を夢見たでしょうか
日本の未来に 何を夢見たでしょうか
地球の未来に 何を夢見たでしょう
1990年 飯井 敏雄 書
後日、2016年1月に、
社長研究室に連絡がありました。
『命どう宝~飯井敏雄の生涯~』の本を出版しました。
その時、松葉博雄さんのブログから、
写真を借用した事が後から分かり、
無断使用をお許し下さいという内容です。
転載は構いませんが、
その本を見せて頂けませんでしょうか?
とメールでお願いすると、
命どう宝の本を、私宛に送ってくれました。
水上爆撃機『瑞雲(ずいうん)』搭乗員 飯井敏雄中尉の生涯
飯井敏雄さんの生涯について書かれています。
飯井敏雄さんは、
昭和20年5月10日慶良間島に集結した
米国戦艦隊を襲撃する為に、
奄美大島の古仁屋基地から飛び立ちました。
飛行機は、水上爆撃機の『瑞雲』です。
註 写真出典 Wikipedia
250kgの爆弾を搭載し、
高度6000mより75度の角度で急降下、降爆可能です。
最大速度は450km、航続距離は2200kmです。
当時、世界に類を見ない高性能水上爆撃機でした。
ところが、与論島上空辺りで、
米国軍の夜間戦闘機2機と遭遇し、
空中戦になりました。
その後、伊平屋島上空で、
地上から米国軍に捕捉され、強烈なサーチライト
を当てられ、幻惑され、
目測できなくなり、アメリカの軍艦に体当たりする
ことも出来ず、被弾を受け、
飛行機は海上へと墜落していきました。
幸い、部下と共に一命は取り留め、
海上を漂い、二人で伊平屋島を目指し
て、およそ30kmを12時間かけて泳ぎ切りました。
伊平屋島の800mくらい手前の
永良部岩近くで力尽きていたところを、浜辺
の住民達に助けられました。
伊平屋島の島民に救助され、
4時間後に蘇生したそうです。
島の人に命を助けられ、
介抱を受けて元気を取り戻しました。
しかし昭和20年6月3日、
日本軍が守備していない伊平屋島に、
米国軍が上陸、その兵力は、
7000人とも1万人とも言われる大部隊でした。
このとき島の軍人は、
飯井敏雄さんと、部下の二人だけでした。
飯井敏雄さんは軍人として、
アメリカ兵と戦って、
戦死することを島民に強く求めましたが、
島民の人たちとは玉砕か、
投降かで議論が長らく続いたようです。
飯井敏雄さんは、徹夜の激論の興奮の中、
ふるさとの父母姉妹の事がふと頭
をかすめ、島の人達を道連れにして、
軍人らしく死のうとするのは、
誤った考えであることに気がつきました。
そして、持っていたピストルを
土の中に深く埋め、島の人達と同じように、
島民となり、米国軍に降伏する道を選びました。
捕虜となったとき、
名前を長男東江正人33歳と、
次男東江弘30歳と、
称して、米国軍に届けました。
やがて日本の敗戦が決まり、
伊平屋島にも日本の無条件降伏が伝わりました。
この後、飯井敏雄さんともう一人は、
伊平屋島の島民となって、伊平屋島の
復興に協力することになりました。
終戦80周年をむかえて
写真の建物は、飯井敏雄さんが、
伊平屋島に住んでいたときに、
米国軍と戦って亡くなっていった戦闘機の戦士達を慰霊する、
慰霊塔の脇にある建物です。
今は、人は住んでいませんでした。
2025年は、終戦80周年の年です。
沖縄には、本土からも近隣諸国からも沢山の観光客が訪れ、
平和な島に生まれ変わっていますが、島内をめぐれば、
いたるところに米国軍の基地がいまだ残り、
空軍も海兵隊も駐留しています。
沖縄訪問で各地を訪れ、
伊平屋島で移した写真から、
飯井敏雄さんの家族とも連絡がついて、
知らなかった特攻隊員の話と、
その後の復興に協力した物語を知る事が出来ました。
このような埋もれた話を掘り起こして、
記録して伝えていくことも、
一つの役割であると思います。
2016年2月