道の駅かでな から、嘉手納基地をみる

道の駅かでな 朝鮮半島の緊張により、嘉手納基地は注目されています。 第157回沖縄(15)  社長ブログ沖縄/道の駅かでな

道の駅嘉手納

道の駅かでなに来ています。

北朝鮮の水素爆弾実験と、長距離弾道弾の発射予告で、沖縄の基地は、緊張感が漂っています。

道の駅かでなからは、隣接するかでなの飛行場の様子が見えます。

緊張感を反映して、屋上のデッキにはNHKを始め、テレビ局のカメラが飛行場の滑走路に向けて、いつでも撮影できるように並んでいます。

道の駅かでなから見える 米国の軍事施設

アメリカと旧ソ連の冷戦時代には、軍事施設は近づく事も出来ず、写真を撮ることも許されませんでしたが、今の道の駅かでなからは、米国軍の様子が自由に見れます。

しかも、外国人の見物も自由で、特に多いのは中国人観光客の方です。

一般人が見ているのは、肉眼か双眼鏡くらいですが、報道陣の方は、超望遠レンズを使って、遠くまで詳しく、はっきりと分かるように、認識しています。

毎日、飛行機の離発着がある間は、カメラマンがこの場所で長時間張り込んでいるようです。

時々、空をかききるような、高い金属音の爆音が聞こえる事があります。

これは、上空を戦闘機が何機か飛んでいる時です。

一度飛び立ったジェット戦闘機は、なかなか帰ってきません。音がしても、降りてきません。

30分も、40分も待っても、新聞報道で伝えられるようなジェット戦闘機が降りてこないので、諦めて切り上げます。

かでな飛行場と周辺地域

嘉手納飛行場の面積は1,997haで、羽田空港の約2倍の広さです。

大型爆撃機が離発着できる全長2,250mの滑走路があります。

居住地区には、基地司令部、兵舎、通信施設、家族住宅、病院等があるほか、幼稚園、小・中・高校、図書館、野球場、ゴルフ場、映画館、カミサリー(スーパーマーケットのようなもの)、ボーリング場等の教養娯楽施設も完備されています。

そこには9,000人以上の家族が生活しています。

米軍事基地と観光スポットの二面性

この施設は、復帰の際に嘉手納、波平、知花の各弾薬庫や比謝川サイト等9施設を統合したものであり、空軍、海兵隊、海軍、陸軍の各種兵器の貯蔵庫として、また、極東地域への弾薬類の統合貯蔵補給地区として、きわめて重要な役割を果たしています。

弾薬貯蔵地域は立入りも厳重にチェックされ、特定の場所以外は禁煙とされており、弾薬庫群のほか整備工場、実験室、事務所等があり、弾薬の再生、組立、貯蔵施設管理が行われています。

米軍は昭和20年から27年にかけて、これらの施設間の、嘉手納町、北谷町、那覇市、具志川市にタンクファームを建設し、昭和27年から28年にかけて、これらの施設間のパイプラインを敷設して連結しました。

道の駅かでなは、本町の東部地区で、沖縄市、具志川市との道路結節点である交通条件と米軍嘉手納飛行場が一望できる観光スポットを活かした地域拠点というわけです。

2016年2月3日(水)


←前へ:第157回沖縄(14)

→次へ:第157回沖縄(16)

道の駅かでなでは、嘉手納町の嘉手納飛行場が見えます。道の駅かでなで、戦後の歴史を映像で見ました。 第128回沖縄訪問(10)

東日本大震災が起きて以来、ニュースの焦点は、震災復興に向けられています。

東日本大震災が起きる前に、大きな関心が払われていた沖縄基地問題については、あまり報道がなされていません。

道の駅かでな

そこで、直接、基地と基地の報道について、「道の駅 かでな」に寄って、見て来ます。

ここへは何度も来ています。「道の駅 かでな」の屋上からは、向いの嘉手納基地全体を見ることができます。

道の駅かでな

道の駅かでなの建物の4階に、嘉手納基地飛行場が見える展望台があります。

デッキに陣取って、望遠レンズを付けたカメラマンが、常時待機しています。

沖縄の基地の問題が、熱を帯びている時は、取材陣も熱を帯びています。

道の駅かでな

どんな飛行機がアメリカ本土や他の基地から飛んでくるのか、カメラを持ったまま待機するのは、かなり根気のいる仕事です。

気を抜くこともできず、いつ来るかも分からない飛行機の離発着を待っています。

道の駅かでな

売店で何か食べようと思っていましたが、閉店時間がきて、閉まってしまいました。

道の駅かでな

嘉手納基地の在日米軍飛行場に関する、いろいろな資料の展示をしています。

道の駅かでな

嘉手納基地の周辺で、実際にジェット戦闘機の離発着の音を聞けば、耳をつんざくようなけたたましい金属音には、思わず耳を塞ぎたくなります。

これが、日常的に空から、耳と脳に、錐で刻むような鋭い音が続けば、平衡感覚まで狂ってしまいそうです。

道の駅かでな

映像での資料には、戦後間もない読谷、日本がアメリカに降伏し、沖縄が日本本土と切り離され、アメリカの統治下に置かれていた頃、読谷が占領されて少しずつ復興してきた頃の様子などが映し出されています。

(出典 道の駅 かでな学習展示室)

道の駅かでな

ロータリーが出来て、町が復興していく様子、畑が耕されていく様子、 アメリカ軍の仕事をもらってなんとか生きていく様子、 そんな状況のことを映し出しています。

道の駅かでな

嘉手納基地内の売店で働く、沖縄人女性達の姿が写真に納められています。

占領間近の、沖縄での女性達の歴史を改めて知りました。

道の駅かでな

嘉手納村が北谷村から分村した1周年記念の写真です。

分村の理由は、基地が両者を二分したためです。この頃の町政には、基地と政府との厳しい交渉がつきまとっていたようです。

道の駅かでな

これは、戦後、米軍によって作られた嘉手納ロータリーです。

沖縄に来て、国道58号線を車で走るとき、このロータリーを回って、恩納村の方に向かっています。

道の駅かでな

沖縄は、こうして米軍に占領され、米軍の施設に畑や字が、基地の下に埋もれてしまいました。

道の駅かでな

しばらく戦後史を見て、飛行場を見ていましたが、道の駅かでなには食べたいものもなかったので、次の場所へ行くことにしました。

道の駅かでな

焼肉を食べた後なのに、もう何かを食べようなんて、元気のいい証拠です。

健康状態も良好、沖縄のリゾートライフはゆったりと時間が過ぎていきます。

しかし、このような平和な落ち着いた生活ができるまでには、多くの人の犠牲や、骨折りがあったことが、嘉手納基地の「道の駅 かでな」で見た映像で認識され、改めて戦後の復興の努力に感謝します。

嘉手納 関連記事 アーカイブ

2011年4月11日(月)

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください