道の駅かでなで、嘉手納町の嘉手納飛行場を見ました。

道の駅かでなでは、嘉手納町の嘉手納飛行場が見えます。道の駅かでなで、戦後の歴史を映像で見ました。 第128回沖縄訪問(10)

東日本大震災が起きて以来、ニュースの焦点は、震災復興に向けられています。東日本大震災が起きる前に、大きな関心が払われていた沖縄基地問題については、あまり報道がなされていません。

道の駅かでな

そこで、直接、基地と基地の報道について、「道の駅 かでな」に寄って、見て来ます。ここへは何度も来ています。「道の駅 かでな」の屋上からは、向いの嘉手納基地全体を見ることができます。

道の駅かでな

道の駅かでなの建物の4階に、嘉手納基地飛行場が見える展望台があります。デッキに陣取って、望遠レンズを付けたカメラマンが、常時待機しています。沖縄の基地の問題が、熱を帯びている時は、取材陣も熱を帯びています。

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どんな飛行機がアメリカ本土や他の基地から飛んでくるのか、カメラを持ったまま待機するのは、かなり根気のいる仕事です。気を抜くこともできず、いつ来るかも分からない飛行機の離発着を待っています。

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売店で何か食べようと思っていましたが、閉店時間がきて、閉まってしまいました。

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嘉手納基地の在日米軍飛行場に関する、いろいろな資料の展示をしています。

道の駅かでな

嘉手納基地の周辺で、実際にジェット戦闘機の離発着の音を聞けば、耳をつんざくようなけたたましい金属音には、思わず耳を塞ぎたくなります。これが、日常的に空から、耳と脳に、錐で刻むような鋭い音が続けば、平衡感覚まで狂ってしまいそうです。

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映像での資料には、戦後間もない読谷、日本がアメリカに降伏し、沖縄が日本本土と切り離され、アメリカの統治下に置かれていた頃、読谷が占領されて少しずつ復興してきた頃の様子などが映し出されています。(出典 道の駅 かでな学習展示室)

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ロータリーが出来て、町が復興していく様子、畑が耕されていく様子、 アメリカ軍の仕事をもらってなんとか生きていく様子、 そんな状況のことを映し出しています。

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嘉手納基地内の売店で働く、沖縄人女性達の姿が写真に納められています。

占領間近の、沖縄での女性達の歴史を改めて知りました。

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嘉手納村が北谷村から分村した1周年記念の写真です。
分村の理由は、基地が両者を二分したためです。この頃の町政には、基地と政府との厳しい交渉がつきまとっていたようです。

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これは、戦後、米軍によって作られた嘉手納ロータリーです。松葉博雄は、沖縄に来て、国道58号線を車で走るとき、このロータリーを回って、恩納村の方に向かっています。

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沖縄は、こうして米軍に占領され、米軍の施設に畑や字が、基地の下に埋もれてしまいました。

道の駅かでな

しばらく戦後史を見て、飛行場を見ていましたが、道の駅かでなには食べたいものもなかったので、次の場所へ行くことにしました。

道の駅かでな

焼肉を食べた後なのに、もう何かを食べようなんて、元気のいい証拠です。健康状態も良好、沖縄のリゾートライフはゆったりと時間が過ぎていきます。

しかし、このような平和な落ち着いた生活ができるまでには、多くの人の犠牲や、骨折りがあったことが、嘉手納基地の「道の駅 かでな」で見た映像で認識され、改めて戦後の復興の努力に感謝します。

2011年4月11日(月)

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