伊平屋島に「雲流るる果てに」と刻まれた神風特攻隊隊員の慰霊碑がありました。 「雲湧きて 流るるはての 青空の その青の上 我が死にどころ」伊平屋島訪問記(18)

伊平屋島に「雲流るる果てに」と刻まれた神風特攻隊隊員の慰霊碑がありました。丘の上から、具志川島の青い空の、雲流るる果てに… 第138回沖縄訪問(21)

神風特攻隊隊員の慰霊碑

野甫を離れ、久葉山の方向へ行くつもりが、気になる建物を発見したので、

引き返して、野甫の真ん中辺りの山を上がっていくと、そこには予想もしなかった、

太平洋戦争で、特攻隊で散っていった人達を慰霊する塔がありました。

慰霊塔から見ると、真っ正面に、美しい具志川島と、白い砂浜が見えます。

そしてその上に沖縄の青い空が見えて、あの大空の向こうに、

御国のために若い命が散っていったということが顕彰碑に書かれています。

「雲湧きて 流るるはての 青空の その青の上 我が死にどころ」

昭和18年7月7日 古川正崇 旧海軍中尉 神風特攻隊

昭和20年5月29日沖縄にて特攻戦死。享年24歳。 と慰霊碑に記されています。

「雲ながるる果てに」と刻まれた、慰霊の塔には、慰霊の塔を囲む円形に、

特攻隊の隊員を模した若者の人形が、配置されています。

命(ぬち)どう宝

1945年 日本は戦に敗れました
健康で英知に富む若者たちは
海軍航空隊を志願し 散ってゆきました
彼らは 自分の未来に 何を夢見たでしょうか
日本の未来に 何を夢見たでしょうか
地球の未来に 何を夢見たでしょう
1990年 飯井 敏雄 書

大阪外語大出身の古川正崇君はこの歌を残し 昭和18年9月海軍飛行予備学生とな

昭和20年5月沖縄の海に特攻散華しました

この歌は学徒出身の海軍飛行塔乗員の心を代表するものとして戦後白鴎遺族会(旧海軍飛行予備学生と遺族の

会)発刊の遺稿集は「雲ながるる果てに」の書名になりました

遺稿集の心で建立した「雲の塔」も同じ題に致しました

飯井敏雄

改めて思うことは、ここ沖縄は太平洋戦争での激戦区だったということです。

学徒出陣の若い命が、敵の船と引換えに、神風という賞賛の名で散っていったのです。

松葉博雄の父も、太平洋戦争では招集され、軍医としてフィリピンに出征し、

補給路を断たれ、食べ物の無い中で、フィリピンの山中を彷徨い、地獄を見てきたと、

幼い頃父から聞きました。

戦争を直接体験した世代の人達が、どんどん亡くなっていき、

あの狂気の時代を伝える人が少なくなってきました。

門柱には、グンサナー森、白い家の玄関にはグンサナー屋という表札がかけられています。

グンサナーの意味は不明です。

奥の方に、また別のお墓がありました。お参りをして、もう一度、今日の予定の方向に戻ります。

伊平屋島の一番高い丘の、向こうに見える、具志川島と大空に向かって、

夏の入道雲を見ると、あの大空に散っていった人達を慰霊しようという気持ちが伝わってきます。

平和な時は、沖縄はリゾートアイランドになりますが、これまでの人と人、国と国の覇権争いの時代には、

沖縄は軍事上の重要な拠点になり、戦場となっていたのです。

2012年7月15日(日)


←前へ:第138回沖縄(20)

→次へ:第138回沖縄(22)

水上爆撃機『瑞雲』の搭乗員飯井敏雄中尉の生涯『命どう宝』

飯井敏雄さんは、伊平屋島上空で瑞雲は墜落し、島の人に助けられ、戦後は伊平屋島の復興に力を尽くしました。 社長ブログ神戸/沖縄

沖縄の離島伊平屋島に行ったときの事です。

伊平屋島に橋で繋がった、小さい島がありました。

島の名前は、野甫です。

野甫は、伊平屋島から橋を渡れば、一つに繋がっています。

そこで見たものは、太平洋戦争の終わりの頃、捨て身の戦いで、アメリカの軍艦に特攻して、亡くなっていった若者達の慰霊塔でした。

野甫の慰霊塔

伊平屋島からは、野甫は下の写真ような景色に見えます。

よく見ると、野甫の高台に何か建築物がある事に気がついたので、行ってみました。

それが慰霊塔です。

慰霊塔には、『雲流れる果てに』と書かれていました。

その時は、深い内容は分からないまま、ブログでは慰霊塔の紹介だけしていました。

書籍『命どう宝~飯井敏雄の生涯~』

命(ぬち)どう宝

1945年 日本は戦に敗れました
健康で英知に富む若者たちは
海軍航空隊を志願し 散ってゆきました
彼らは 自分の未来に 何を夢見たでしょうか
日本の未来に 何を夢見たでしょうか
地球の未来に 何を夢見たでしょう
1990年 飯井 敏雄 書

後日、2016年1月に、社長研究室に連絡がありました。

『命どう宝~飯井敏雄の生涯~』の本を出版しました。その時、松葉博雄さんのブログから、写真を借用した事が後から分かり、無断使用をお許し下さいという内容です。

転載は構いませんが、その本を見せて頂けませんでしょうか?とメールでお願いすると、命どう宝の本を、私宛に送ってくれました。

搭乗員飯井敏雄中尉の生涯

飯井敏雄さんの生涯について書かれています。

飯井敏雄さんは、昭和20年5月10日慶良間島に集結した米国戦艦隊を襲撃する為に、奄美大島の古仁屋基地から飛び立ちました。

飛行機は、水上爆撃機の『瑞雲』です。

250kgの爆弾を搭載し、

高度6000mより75度の角度で急降下、降爆可能です。

最大速度は450km、航続距離は2200kmです。

当時、世界に類を見ない高性能水上爆撃機でした。

ところが、与論島上空辺りで、米国軍の夜間戦闘機2機と遭遇し、空中戦になりました。

その後、伊平屋島上空で、地上から米国軍に捕捉され、強烈なサーチライトを当てられ、幻惑され、目測できな

くなり、アメリカの軍艦に体当たりすることも出来ず、被弾を受け、飛行機は海上へと墜落していきました。

幸い、部下と共に一命は取り留め、海上を漂い、二人で伊平屋島を目指して、およそ30kmを12時間かけて泳ぎ切りました。

伊平屋島の800mくらい手前の永良部岩近くで力尽きていたところを、浜辺の住民達に助けられました。

伊平屋島の島民に救助され、4時間後に蘇生したそうです。

島の人に命を助けられ、介抱を受けて元気を取り戻しました。

しかし昭和20年6月3日、日本軍が守備していない伊平屋島に、米国軍が上陸、その兵力は、7000人とも1万人とも言われる大部隊でした。

このとき島の軍人は、飯井敏雄さんと、部下の二人だけでした。

飯井敏雄さんは軍人として、アメリカ兵と戦って、戦死することを島民に強く求めましたが、島民の人たちとは

玉砕か、投降かで議論が長らく続いたようです。

飯井敏雄さんは、徹夜の激論の興奮の中、ふるさとの父母姉妹の事がふと頭をかすめ、島の人達を道連れにし

て、軍人らしく死のうとするのは、誤った考えであることに気がつきました。

そして、持っていたピストルを土の中に深く埋め、島の人達と同じように、島民となり、米国軍に降伏する道を選びました。

捕虜となったとき、名前を長男東江正人33歳と、次男東江弘30歳と、称して、米国軍に届けました。

やがて日本の敗戦が決まり、伊平屋島にも日本の無条件降伏が伝わりました。

この後、飯井敏雄さんともう一人は、伊平屋島の島民となって、伊平屋島の復興に協力することになりました。

終戦70周年をむかえて

写真の建物は、飯井敏雄さんが、伊平屋島に住んでいたときに、米国軍と戦って亡くなっていった戦闘機の戦士

達を慰霊する、慰霊塔の脇にある建物です。

今は、人は住んでいませんでした。

2015年は、終戦70周年の年でした。

沖縄には、本土からも近隣諸国からも沢山の観光客が訪れ、平和な島に生まれ変わっていますが、島内をめぐれ

ば、いたるところに米国軍の基地がいまだ残り、空軍も海兵隊も駐留しています。

沖縄訪問で各地を訪れ、伊平屋島で移した写真から、飯井敏雄さんの家族とも連絡がついて、知らなかった特攻

隊員の話と、その後の復興に協力した物語を知る事が出来ました。

このような埋もれた話を掘り起こして、記録して伝えていくことも、一つの役割であると思います。

2016年2月

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください