闘竜灘に鮎を求めて 滝寺荘の鮎は大分産の養殖鮎でした。闘竜灘は兵庫県加東市にあります。

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闘竜灘に鮎を求めて 滝寺荘の鮎は大分産の養殖鮎でした。闘竜灘(とうりゅうなだ)は兵庫県加東市にあります。

闘竜灘の鮎

加東市の加古川中流にある闘竜灘では、

毎年全国に先駆けて5月からアユ釣りが解禁されています。

近年は天然のアユが遡上しなくなって減少しているため、

地元の漁協が稚魚を放流しています。

琵琶湖産の稚鮎でも、加古川に放流して、

加古川の苔を食べて育てば、

加古川産の天然アユになるのです。

加古川産の天然アユを食べたいと思って闘竜灘に来ました。

30年以上前にも、父母と私の家族で闘竜灘の

古い料理旅館で鮎を頂いた思い出があります。

今回は、その料理旅館は見つかりませんでした。

新しい料理旅館の滝寺荘(たきじそう)へやってきました。

10月も下旬になってくると、

鮎の生涯も終わりの頃になってきます。

鮎は、卵を産んで、そのあとは力尽きて、

生涯を終えることになります。

その卵を抱えている鮎が美味しいのです。

卵を抱えている鮎、つまり落ち鮎を求めて、

闘竜灘に来ました。

闘竜灘の掛梯子

播磨きっての名勝「闘竜灘」は、加古川の中流に位置し、

川底いっぱいに広がる奇岩怪石が見事な風景を作り出します。

激しい川の流れが岩を乗り越える様子が、

竜が飛び跳ねて戦うのに似ているところから闘竜灘と名づけられました。

闘竜灘の掛梯子です。

加古川流域滝野歴史民俗資料館には、

大きな梯子があります。

今はもう新たな橋になっていますが、

当時は掛梯子とよばれ、滝の真上にかかっていた橋です。

手すりも渡し板もなく、スリル満点の橋ですが、

周辺の人々には貴重な生活の道であり、

子供や女性でもヒョイヒョウイと行き来していたそうです。

洪水の時には梯子を岩場へ引き上げて流失を防いでいました。

はしごは14.56m、幅約1m、重さ248kgのヒノキ材です。

闘竜灘がすぐ側で見える滝寺荘

滝寺荘は兵庫県加東市にある料理旅館です。

中国自動車道、滝野社ICから

国道175号線を西脇方面へ北上、

闘竜灘東交差点を左折します。

滝交差点を左折すると、

進行方向左手に駐車場入り口があります。

闘竜灘を見ながら滝寺荘で落ち鮎御膳

料理旅館「滝寺荘」ではご宿泊だけでなく、

お食事のみのご予約も受け付けております。

木曜日の平日だったので、空いていました。

一番いい席に案内して貰えて、ラッキーでした。

窓ガラスがあるので渓流の音は聞こえてきませんが、見ていると迫力のある川の流れです。

今日のお目当ては鮎料理です。

このお店で人気の期間限定メニュー、

落ち鮎御膳を注文しました。

落ち鮎御膳は昨年も大好評だったことにより、

今年は9月14日からメニューに出ているようです。

滝寺荘の鮎は、天然鮎なのか、養殖鮎なのか

滝寺荘の鮎は、天然鮎なのか、養殖鮎なのか気になります。

支配人に尋ねてみました。支配人の答えは養殖鮎でした。

滝寺荘では、年間2万匹もの鮎を提供しているそうです。

天然では安定的な鮎の確保は難しく、

大分から養殖鮎を仕入れているそうでした。

鮎の仕入れ方法は、生きた鮎、冷蔵鮎、

冷凍鮎と3つの方法で仕入れているそうでした。

滝寺荘では年間2万匹の鮎を提供

2万匹も鮎がここで食されていることに驚きです。

子持ち鮎の塩焼き、有馬煮、鮎の釜めしなど、

シーズン最後の鮎を存分に楽しむことができました。

釜めしは炊きあがるのに時間がかかるため、

事前に予約していたのでよかったです。

落ち鮎御膳の内容は、季節の先付 子持ち鮎の塩焼き

子持ち鮎の有馬煮 鮎の釜飯 赤だし 

茶碗蒸しで3,500円でした。

松茸の土瓶蒸し付きになると、5,000円になります。

時期によって味わいを変える鮎。

そのクライマックスともいえるのが落ち鮎だそうです。

子持ちの鮎の魅力を贅沢に楽しめる大好評の料理です。

宿泊客もレストランにて同じメニューを楽しむことができます。

別途2,500円払えば、お部屋で食べることもできるそうです。

落ち鮎には卵がいっぱい

世界に一つ、加東遺産、播磨の名勝 闘滝灘です。

闘竜灘の名の由来

一道の飛瀧地を劈きて開き怒声豪勢風雷と闘ふ

秋は千巖に入りて霜葉麗し 玉龍躍り出でて錦雲堆む 

という詩があります。

岩をかんで激しく流れる滝は、

まるで竜が闘うようであるという意味を表します。

この詩は江戸時代末期の詩人・梁川星巖が詠み、

闘竜灘の名の由来となりました。

闘滝灘の水路を拓いた阿江与助(あこうよすけ)

下の写真は阿江与助銅像です。

阿江与助は、加古川舟運開発の祖と呼ばれています。

豊臣秀吉の天下統一後、

大阪が新しく日本の政治・経済の中心になりました。

しかし、牛馬の背や荷車では、

東播磨や丹波の物資を大量に運ぶことが出来ません。

そこで考えられたのが船ですが、

加古川には浅瀬や岩が多くてとても危険でした。

その頃、北播磨をおさめていた

豊臣氏の代官・生駒玄蕃は、

滝野村の阿江与助らに船の道を作るよう命じました。

与助たちは、岩を削り、

浅瀬に水路を掘って船が通れるようにし、

また激しい流れに耐える高瀬舟をつくりました。

こうして滝野から河口の高砂港まで

高瀬舟の航路が開かれたのは、文禄3年(1594年)のことです。

ついで慶長9年(1604年)、播磨の領主・池田氏によって

闘竜灘から上流の氷上群本郷村(現丹波市)までが開発され、

加古川舟運は完成しました。

高瀬舟は滝を越せないので、

上流の荷物は闘竜灘の手前でおろし、下流の船に積み替えました。

こうして江戸時代から明治にかけて、

滝野は物資の集散地として栄えたのです。

しかし、大正二年(1913年)に播州鉄道が開通すると、

荷物の運送は鉄道にかわり、3

20年も続いていた高瀬舟は姿を消してしまいました。

高瀬舟とは、浅瀬でも通れる箱形の船です。

加古川では、長さ14.4m、

幅2.4mの船が使われていました。

船頭、艫のり、中のりの3人が操り、

米俵を約60俵(4.5トン)も積んで、

滝野一高砂38kmを約4時間で下りました。 

闘竜灘に落ち鮎を求めてきました。

滝寺荘で加古川産ではない、大分産の養殖鮎でしたが、

卵がいっぱい入っていた鮎だったので、美味しかったです。

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2019年10月24日(木)