沖縄終戦 沖縄の「終戦の日」 事実上の終戦記念日 6月23日 沖縄戦アメリカ軍上陸地点
投稿No:8298
沖縄の終戦記念日は、本土の8月15日の終戦記念日と違います。沖縄の「終戦」について~沖縄の事実上の終戦記念日~
沖縄終戦の日 6月23日
沖縄終戦 【読者投稿】沖縄の「終戦」について
~沖縄の事実上の終戦記念日~
私は、8月15日に沖縄本島にある
平和祈念公園の資料館が休館日でがっかりし、
サブタイトルに
「第60回終戦記念日なのに、なんと祈念資料館は定休日でした、あなたはそれでいいんですか?」とさえ書きました。
すると、この記事をご覧になった
読者の方よりご意見をいただきました。
論点は、終戦記念日は沖縄と本土では、
認識の違いがあるということです。
沖縄の終戦 本土の終戦
沖縄の終戦記念日とは、組織的な抵抗が終わった
昭和20年6月23日を事実上の終戦記念日と捉え、
平和を祈念し「慰霊の日」としています。
現地の意識を汲み取れないまま、
政府の行う「終戦記念日」をそのまま当てはめていたことに対して、
十分な理解ができていませんでした。
以下は、投稿をいただいたコメントをご紹介いたします。
読者からの指摘
(前略)
終戦の日は日本国内では8月15日で有りますが
私は沖縄では6月23日だと考えています。
昭和20年6月23日は沖縄守備軍の
牛島司令官と長参謀長が自決し、
沖縄における軍令体制が消滅した日で有ります。
この日を節目とする事には色々異論は有りますが、
沖縄県が1974年に「慰霊の日」として制定した事に関し
ては、私は正しい事だと思っています。
以後30年を経過し「慰霊の日」は沖縄県民にとって、
かけがえの無い日と成って居る事を否定する事は出来ません。
内地での8月15日には、
沖縄では日米の軍事戦闘はほぼ収束し、
アメリカ政府による占領政策が施行され、
沖縄本島の県民は平穏を取り戻しつつ有った時期ですので、
8月15日を終戦と呼ぶには
沖縄県民の実感からは遠いものが有ると思います。
それから私は15年に渡って沖縄の人と付き合っていますが、
沖縄の人達が平和に対して無頓着だとは感じて居ませんので・・・
沖縄の6月23日と内地の8月15日・・
色々な意味を含んでの平和祈念日としてご理解を頂き、
その上で会社の皆様にお話をして頂き
皆様のご理解を頂く様宜しくお願い致します。
なるほど、貴重なご意見ありがとうございます。
慰霊の日には歴代の首相も追悼式に参列
投稿メールを読んで、その後、ネットで検索をしてみると、
確かに「慰霊の日」は6月23日に行われていて、
慰霊の日には歴代の首相も追悼式に参列されていました。
この日は、学校もお休みになるようです。
いろいろ調べてみると、理解の不足が明らかになりました。
当初のサブタイトルを変え、
内容を若干変更することにしました。
恩納村 沖縄戦の記録が恩納村遺族会によって保存
国際通りの終戦直後の状況です。
アメリカ軍が恩納村に上陸して、
日本が降伏した頃、山に篭っていた人達が、
どんどん降参して出てくる写真がありました。
民間人の皆さんは、
武装解除された兵隊さんと同じく、
強制的に収容所に入れられました。
アメリカ軍が、読谷(よみたん)の海に
上陸しているところの写真です。
アメリカ軍の火炎放射器によって、
洞窟に避難していた民間人の
多くの方が焼き殺されました。
原因は、民間人の避難所に
日本軍の将兵が入り込んできたためのようです。
この本は、恩納村の遺族会が発行しています。
第二次世界大戦では、終戦間近には沖縄が戦場となり、
本土よりも先に攻撃され、
多くの民間人が戦争の犠牲者になりました。
こういう大変な思いがあったことを忘れてはいけません。
ひめゆりの塔は、
その悲惨な戦争の代表的な事例ですが、ここ恩納村にも、
アメリカ軍が上陸し、洞窟や洞穴に立てこもって、
隠れていた民間人と軍隊とが
一緒に攻撃されて、多くの戦死者が出ています。
ひめゆりの塔へ慰霊の参拝
ひめゆりの塔自体は、
それほど大きなものではありません。
地下の防空壕を病棟代わりに使い、
ここに多くの傷病兵と医師および看護の人たちが、
医療施設も医薬品も劣悪な中で、
最期まで励まし合いながら、
6月18日の解散命令の日を迎えました。
ひめゆりの塔のすぐそばに
「ひめゆり平和祈念資料館」ができているので入場しました。
この祈念館は、生き残った同窓生の人たちが力を合わせて、
誰からの公的な資金も援助も受けないで、
自分たちの力でこの戦争の悲惨さを伝える為に造ったとのことです。
私と奥さんは、今日の終戦記念日のお参りとして、
お花を買って献花をしました。
ひめゆりの塔の周りを柵で囲い、
その柵の下にはかつての病棟である
防空壕が当時のまま保存されています。
今は柵のすぐそばに献花台が設けられ、
たくさんの方が毎日鎮魂の祈りを捧げています。
病院といっても、野戦病院なので、
防空壕の中に造られた医療施設としては本当に粗末なものです。
ここに木製の蚕棚のような
二段式の簡易ベッドが洞窟に沿って並べられ、
次から次へと運び込まれる傷病兵を収容しました。
しかし、医薬品はほとんどなく、
化膿した患部からはウジがわき、壊死を防ぐために、
麻酔薬のないまま、
皆で押さえつけて手足の患部を切断したということです。
詳しいことは、平和祈念資料館をリンクしていますので、
こちらを参照してください。
沖縄戦の悲惨
1945年4月1日から始まった沖縄本島への米軍の侵攻は、
わずか2ヶ月あまりの6月18日には、
日本軍から解散命令が出るに及び、
行き場を失った民間人の人たちは、
多くは自決、戦死、負傷などにより、
多くの犠牲者を出しました。
迫り来るアメリカ兵が投降を呼びかけても、
「戦陣訓」に従って、
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
という教育に洗脳され、
自らが死を選ぶ結果となりました。
今となっては、ずいぶんとむごい事を強要したものです。
ひめゆり平和祈念資料館
広い中庭にぐるっとまわるような形で建物が広がって、
それぞれの部屋には戦争の悲惨さを伝える展示物や、
あるいはスライドやテレビなどが当時の模様を伝えています。
16、17才で動員された女子高校生の人たちは、
ほんの少しの人たちが生き残っていますが、
彼女達がこの記念館を作る原動力となりました。
今回、この元ひめゆり学徒の方が、
歴史を伝える証人として、
館内で当時のことを直接入館者に語りかけてくださいました。
ひめゆり部隊の生き証人 語り部の方から聞いた話
1945年4月といえば、東京大空襲、サイパン玉砕、
その後に沖縄の決戦ということになりましたが、
実際は敗戦の色濃く、
沖縄で抵抗する意味も希薄な戦況でした。
ところが、沖縄の人たちにはまだ
本当の戦況情報が伝えられていなかったので、
必ず勝つものだと思っていたそうです。
そして、病院へ行くように言われて、皆で手伝いに行きました。
ひめゆり学徒の女学生たちは、
すぐに陸軍病院に配属されました。
4月1日、米軍は沖縄本島に 上陸し、
徐々に南下してくるに従い、
日本軍の死傷者が激増します。
その結果、更迭されてくる
負傷兵の看病や水汲み、あるいは手当て、
あるいは死体埋葬に追われ、
仮眠を取る閑もなくなったそうです。
最初は、手足を切断する医療現場で、
卒倒したり、目も開けられなかった学徒も、
毎日のことなので、次第に慣れていきます。
遺体の埋葬、切断した手足の埋葬、
傷の手当て、傷口の膿の吸い取りなど、
看護教育も受けないまま、
苦しむ傷病兵を助けるために一生懸命病院に協力しました。
5月下旬になると、米軍が迫ってくる中、
生徒達は日本軍とともに陸軍病院を出て本島、
南端部に向かいました。
激しい艦砲射撃が続く中で、6月18日を迎えます。
その日、学徒たちには突然の「解散命令」を受けました。
もう逃げるところもない中で
「これからみんなで自由にしていい」と言われても、
どうしようもない状態だったそうです。
しかも、防空壕にも戻ってはいけないということになりました。
米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、
ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、
あるいは手榴弾で自らの命を失いました。
奇跡的に助かった人たちは、
ほとんどが気を失ったり、
あるいは奇跡的に捕虜となって助かった人だけでした。
ほとんどの人が亡くなりました。
今も大きな災害や天災、
事故が起きたとき、生存者の心の中には、
「自分だけ生き残って申し訳ない」という
自責の念にとらわれることがあります。
ひめゆり学徒の生存者の方も、
終戦後、長らくこの「自責の念」の呪縛がありました。
しかし、戦後40年あまりも経って、
やっと、歴史を伝える証人、
語り部としての新しい使命感が芽生え、
そのエネルギーが一つに集まり、
平和祈念資料館の建設の原動力となりました。
平和祈念公園
海の見える高台での食事で、ここで60年前、
大変な戦闘が繰り返され、
多くの人が犠牲になったとは思えないような
今は平和な佇まいになっています。
午前中は、思わず涙が出るほどの
悲しいお話を歴史を伝える
生き証人から直接聞き取る機会に恵まれました。
私の父は、太平洋戦争では軍医としてフィリピンに出征し、
食べるものもないまま野山を彷徨していたそうです。
その話を、子供の頃に父から直接聞いた記憶があります。
子供のとき、食べ物に不満を言ったとき、
フィリピンでは虫や小動物を食べたことを思えば、
贅沢を言ってはいけないと叱られたことを
今日の終戦記念日にあらためて思い出しました。
思えば、戦後80年でずいぶんと
贅沢な生活に慣れてしまったものです。
平和になった時、平和を得るための
犠牲になった方々のことを忘れないように、
語り継いでいきたいと思います。
沖縄戦 アメリカ軍上陸地点 読谷の砂辺馬場公園には米軍上陸地モニュメントがあります。
沖縄戦 アメリカ軍上陸地点
沖縄戦、または沖縄の戦いは、
第二次世界大戦末期の1945年、
沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主
体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いです。
連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦といわれています。
連合軍の上陸地点の読谷の砂辺には、
今はモニュメントが建てられていました。
砂辺の浜辺に行ってみます。
砂辺之龍宮神が祀られているところです。
ポスターを見て分かったことですが、
最近の第45回衆議院選挙では、8月14
日宜野湾市民会館に村山富市元総理が応援に来ています。
砂辺馬場公園がありました。
ここで、クレアちゃんと伊音ちゃんは遊びます。
子どもたちが遊んでいる間に、
周りを歩いてみると、、ここが第二次世界大
戦でアメリカ軍が最初に沖縄に
上陸してきたところだということが分かり、驚きました。
沖縄戦 米軍上陸地
沖縄本島の最初の占領地ということが書かれていました。
大変悲惨な戦争が、ここから始まっています。
それを検証するために、
アメリカ軍が攻めてきているところと、日本人が逃
げているところをレプリカにしています。
民間人に向けて、軍隊は火器を向けています。
北谷町長の島袋雅夫さんが、
1991年4月1日に宣言した銘があります。
ここがアメリカ軍が
最初の上陸地点なのかと感慨深い思いがします。
沖縄戦は艦砲射撃で地形が変わった
米軍上陸地碑を読んでみると、
艦砲射撃で海岸線も地平線も山も、地形が変
わるほど爆弾を打ち込まれたそうです。
1945年4月1日から、今日の2024年6月23日まで、
およそ80年近く経過しています。
今では、第二次世界大戦の沖縄戦は風化しつつあります。
しかし、現実にここで
激しい戦闘と殺虐があったことは事実です。
そのことを忘れないでと、
モニュメントは伝えています。
今では浜辺の向かいには、マンションが2棟建っています。
公園も作られて、子どもたちが遊ぶように、整備されています。
クレアちゃんと伊音ちゃんは、とてもご機嫌です。
「こんな子どものための遊ぶ場所が、
前兼久にあったらいいね」と、
金城正則さんと千賀子さんが言っていました。
海岸線までには、広い芝生が続き、
かなり向こうに、海が少し覗いて見えます。
馬場公園のシンボルである、馬の滑り台です。
いくつかの遊戯施設があり、
それを一つひとつ遊んでいる間に、
一時間ぐらいはあっという間に過ぎます。
遊び道具や広場があれば、
子どもたちはしばらくは夢中になって遊び、
大人が相手をしなくても、ぐずらずに、
機嫌良く時間を過ごすことが分かりました。
それが家だと、走り回ると何かに当り、
遊び道具も少なく、
子どもを夢中にさせるものが足りないことが分かりました。
「砂辺の浜之歌碑」もありました。
近くにあったらいいなと思える公園です。
エイサー祭りは、祖先の霊を迎える鎮魂のお祭なので、
第二次世界大戦でこの地からたくさんの亡くなった方の慰霊には、
エイサー踊りの太鼓を打つ絵が解け合っているように見えました。
公園で遊んだ後は、恩納村に帰ります。
2009年9月3日(木)