松山城は別名金亀城、勝山城です。築城した加藤嘉明公は、お城が出来たらすぐ仙台に転勤命令が出されました。松山城の天守閣 いざ出陣じゃと、松山城でカブトを被りました。

松山城の別名は、金亀城、勝山城です。松山城を建築した加藤嘉明公には、お城が出来たらすぐ仙台に転勤命令が出されました。松山(17) 

松山城の別名は金亀城、勝山城です。

松山市のマンホールの蓋には、

特産の日本三大絣(かすり)の伊予絣(いよかすり)と

市花ヤブツバキがデザインされています。

これから、松山城に登城です。

松山城に上るには、坂道を歩く方法と、ゴンドラに乗る方法と、

リフトに乗る方法の3つがあります。

松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、

賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、

加藤嘉明が築き始めたお城です。

門櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、

攻守の機能に優れた連立式天守を構えた平山城と言われております。

松山城 築城したのは加藤嘉明公

松山城は、日本で12か所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ、

江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つです。

つまり、江戸時代に作られた天守閣が、今も残っている貴重なお城です。

平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに

美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。

ボランティアのガイドさんの説明を聞くと、

この松山城を建てた加藤嘉明公は、

この城が出来てすぐに江戸幕府から転勤命令が出ています。

今の会社員でも、家を建てても、転勤命令が出る事がありますが、

これだけ立派な松山城を作った後、

すぐに仙台に転勤命令が出たのですから、さぞ残念だったと思います。

天守閣に向かう途中の広場には梅や桜が植えられていて、

春になるときっと賑わうと思います。

天守閣を背景に、絶景の撮影スポットが用意されていて、

ここで奧さんと二人で記念撮影です。

その後、大阪市立大学大学院の同門の、家永秀則さん、

菊池浩史さん、山﨑真嗣さんと一緒に記念撮影です。

松山城の天守閣 守りは固かった

日本のお城は、天守閣が落ちたら負けのルールです。

その為、天守閣にまで的が攻めてこないように、

あらゆる策が巡られています。

上から石を落とす、煮えたぎった油をかける、

横から鉄砲や弓で射かけるなど、最後の最後まで、

天守閣を守るように考えられています。

天守閣に入る途中に、大太鼓をうつ場所がありました。

ここで、城下の家臣達に、集まれとか、急げとか、

敵が来るぞとか、音で合図をしていたようです。

松山城の別名は金亀城、勝山城です。築城したのは加藤嘉明公、松山城の天守閣 いざ出陣じゃと、松山城でカブトを被りました。松山城の天守閣からは、海の方向にDASH島(ダッシュ島)が見えます。 松山(18)

それでは、これから天守閣に上ります。

登り口がもう一つありました。

この登り口はお殿様専用の玄関で、

家臣達はこの玄関を使う事は許されていません。

実際に、お殿様が天守閣に上る機会はあったのでしょうか?

ガイドさんのお話では、ほとんどなかったそうです。

姫路城に上ったときも、天守閣への階段は、急勾配でした。

これも、家臣が上り下りするだけでなく、敵が攻めてくるとき、

少人数しか階段を使えないようにして、上がってきた敵を、

討ちやすくする為の工夫です。

天守閣から見ると、今まで歩いてきたお城の中の敷地が良く見えます。

天守閣の中は、昔の武具や鎧が展示されています。

高橋 貞次(たかはし さだつぐ)は、日本の刀匠で、

重要無形文化財保持者(人間国宝)です。

愛媛県出身者では今日にいたるまで唯一の人間国宝だそうです。

戦国時代の刀や鎧を展示されており、どれも貴重な品々ばかりでした。

天守閣から四方を見れば、一方には瀬戸内海が見えました。

ガイドさんのお話では、あの海の向こうに小さな島があって、

そこはテレビで放映されたDASH島だそうです。

江戸の昔の時代は、高層建築がないので、この天守閣が一番高い建物で、

眺望を邪魔する建物もなく、さぞかし遠くまで良く見えた事だと思います。

天守閣から見れば、松山市は想像以上に建物が多く、

人口の多い大きな都市です。

先ほど聞いたガイドさんのお話で、この城を作った加藤嘉明公が、

お城が出来る寸前に仙台に領地を国替えされ、

この松山城をどんなに残念な気持ちで離れていったのか、

少しは気持ちが伝わってきます。

松山城を案内してくれた松山大学の竹田英司さんとそのゼミ生に、

時々は写真を撮ってもらいながら天守閣をまわりました。

松山城の天守閣 いざ出陣じゃと、松山城でカブトを被りました。松山城の天守閣から街に降りると、うなぎ料理専門店なぎ小椋の鰻屋さんで腹ごしらえです。 松山(19) 

松山城の天守閣 いざ出陣じゃと、松山城でカブトを被りました。

ガイドさんがここで写真を撮りましょうと勧めてくれたのは、

「いざ出陣じゃ」と、書かれている場所です。

ここにはカブトが用意されています。カブトと言ってもヘルメットみたいなものです。

急ぎ足で天守閣を見て回り、預けていた靴を履いて、外に出ます。

松山城の大天守は、三重三階地下一階の層塔型天守で、

黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。

また、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されています。

(Wikipediaより)

慶長年間、加藤嘉明が松山城閣を創建した当時は、

天守閣は五層であった様ですが、

寛永十九年に松平定行が三層に改築したと書かれています。

松山城の天神櫓は、本壇上の北から西かけての北東面の防衛ラインの拠点にあり、

艮門の状況を把握する役割も持っていた様です。

久松松平家の遠祖にあたる菅原道真を祀ったためこの名がある様です。(Wikipediaより)

勝山山頂の天守本壇にある学問の神とのことで、

合格祈願に訪れる受験生もいる様です。

昭和天皇が松山城に来られたときに、お手植えされた松です。

12月だというのに、お城の桜の木には、花が咲いていました。

松山城を見た後は、ロープウェイで降りて、

ここで松山大学の竹田英司さん達のグループとはお別れです。

うなぎ料理専門店 うなぎ小椋

相当歩いたので、お腹が空いて、皆で うなぎ料理専門店 うなぎ小椋

の前で並びました。

かなりの繁盛店で、お昼時には満席でした。

おなかが空いている時に、お店から蒲焼きの匂いがすると、

ますますお腹が空いてきました。

個室に入って注文したのは、鰻重です。

良い匂いで、とても美味しい鰻でした。

これでほぼ、松山観光は終了です。

これからホテルに戻り、預けた荷物を受け取ると、

バス停に行き、神戸三宮・大阪梅田行きのバスに乗り、帰ります。

つい目が行くのは、同業者の看板です。 バス停の向こうに、

四国コンタクトの看板が見えました。

松山から三ノ宮までは、およそ4時間半です。

途中、ビールを飲みながら帰れるのですから、バス旅行は助かります。

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