松葉真一祖父と、松葉章一父の、戦争体験の話を思い出しながら、平和な家庭団らんを、幸せに思います。

松葉章一父の、フィリピンでの餓死寸前の戦争体験は、もっと聞いておけばよかったなぁと、今では反省しています。

松葉博雄の奥さんが、道の駅で買った新鮮な野菜を使って、野菜の天ぷらを揚げてくれています。

美味しいものをいただけることは、とても幸せなことです。そう思う反面、子供の頃、両親の前で好き嫌いの我が儘を言って、意見されたことがあります。

松葉章一父は、太平洋戦争の時招集を受けて、フィリピンに軍医として出征しました。フィリピンでは、山の中を逃げることばかりで、ろくな食べ物が無かったそうです。

そこで、山の中で見つけた、昆虫や小動物を捕まえて、食べることになります。敵に見つかると攻撃されるので、煙が出る、火を使うことが出来ません。ほとんど生で食べていたそうです。

戦争の体験談を、もっと聞いておけばよかったと、食事のたびに後悔します。日本は集団的自衛権の憲法解釈を変える閣議決定をし、一般国民は、こんなに急いで閣議決定するには、背後に何か隠されているのではないかと不安になってきます。

松葉章一父は、食糧のない軍隊の中で、何とか命を繋ぎ、日本軍が降伏したことで、生きている兵士は、捕虜となりました。

捕虜になると、鉄条網の中に囲われ、自由はなくなっても、食べ物の心配をしなくてよくなりました。

こんな負け戦の戦争体験をすれば、食べ物のありがたさや、平穏な生活、一家団欒の食事が、どれほど大切なことなのか、言われなくても気が付きます。

しかし戦争を知らない、戦後生まれの人たちが多数派になれば、戦争の実体験は、少しずつ風化しているかもしれません。

松葉章一父に、聞き逃したことは、サバイバルの方法です。

フィリピンには、およそ50万人の日本兵が出兵し、生きて帰ったのは、わずか1万人だそうです。

一緒に山の奥を逃げ歩いていた戦友が、一瞬の砲撃で死んでしまうことを、何度も体験したそうです。

お腹が空いて、気が狂いそうなほど空腹になると、危険も顧みず、食糧調達に向かうそうです。そうなると、動けば攻撃され、撃たれて死んでしまいます。

じっと潜んで隠れていると、餓死が待っています。毒虫や、マラリア、傷口から湧くウジ虫、いつ自分が死ぬのかと、毎日夜が来ると、今日も生きながらえたと思ったそうです。

大人になって、悲惨な戦争のことが、理解出来るようになると、小学校の低学年のときに、食べ物に好き嫌いを言って、松葉章一父が怒ったことが、今では理解できます。

松葉眞一祖父は、広島に原子爆弾が投下されたとき、新型爆弾が広島に落ちて、広島市は大変な状況だと連絡を受けて、医師として、広島市民の救済をしたいと思い、汽車に乗って広島に向かっていました。

広島に向かう松葉眞一祖父に、広島から逃れてくる被爆者の人たちと、向かい合うことになりました。

これまで見たこともない、ボロボロになった服を着て、被爆による火傷を負った、沢山の人たちを見て、松葉眞一祖父は、もう自分の医師としての限界を感じ、とても薬剤のない自分は、助けられるレベルではないと、途中で引き返して帰ってきたそうです。

松葉真一祖父と、松葉章一父の戦争体験の話を思い出しながら、奥さんが作ってくれる新鮮野菜の天ぷらを、美味しいビールを飲みながら、食べられる幸せをつくづくと思います。

奥さんとこんな話をしていて、奥さんの方は、お祖父さんやお父さんから、戦争体験の話を聞いていますか?と尋ねると、あまり記憶がないそうです。

やはり、戦争体験の惨たらしい話を聞けば、二度と戦争をしてはならないという意識が強くなります。

しかし、戦争をするのは、私たち一般市民が始めるのではないのです。祖父も父も、いつの間にか、戦争に巻き込まれていっています。

2014年7月9日(水)