阪神淡路大震災から30年 あの日の記憶 神戸と共に歩んだ30年【社長経営学】<特別編②>
阪神淡路大震災から30年 あの日の記憶 神戸と共に歩んだ30年【社長経営学】<特別編②>
地震が起きた瞬間、
家の中が大きく揺れ、
何が起こったのか一瞬理解できませんでした。
しかし、すぐに妻と声を掛け合い、
早朝の薄暗い中を一緒に外へ避難しました。
岡本の天井川のところまで歩いていくと、
新聞配達のお兄さんが走りながら
「大変や、大変や」と叫んでいました。
何が起きたかわからないまま、
お兄さんに「おはよう」と言って通り過ぎました。
寝巻きのままでは
震えそうな寒さなので、
何か着る物はないかと探しに家の中に戻りました。
何もかもが散乱していて手も付けられず、
電気もつかない暗い部屋の中で、
やっと服を見つけ着ることができました。
テレビもラジオもわが家には無いので、
さっぱり状況がわからないまま、
近くの姉のところに行ってみました。
200メートルぐらいの距離ですが、
地盤の違いなのか、姉の住まいは
ほとんど無傷でドアも開き、
部屋の家具の倒壊もありません。
ここでしばらく夜明けを待つことにしました。
夜が明けるにつれて、
周りが見えてきました。
岡本地区の近隣は
昔ながらの瓦ぶきの屋根が多く、
倒壊している家が多いことがわかりました。
動くことができないのか、毛布にくるまっ
て道路に座り込んでいるお年寄りを、
家族の方が介護している姿が見えました。
半壊しているお家では2階の窓から家に入り、
中にいる逃げ遅れた人や、
自力で歩けない人を救出する作業が
少しずつ始まっています。
1軒1軒の家で起きたことは
外からは詳細はわかりません。
まず、頼りになるのは家族や同居人でした。
大声で助けを求める家族の声を聞き、
何人かの人が集まり救出のお手伝いを
しているお家もありました。
地震は突然のことだったので、
枕元に置いていたコンタクトが
すぐには見つかりません。
懸命に探してやっと見つけましたが、
水道水が出なくて洗うのに困りました。
情報の80パーセント以上は
目から得られていることは、
この時によくわかりました。
コンタクトを装着すると、
これまで、ぼんやり見えていた地震の状況が
打って変わって、はっきりと見えてきました。
ご近所では、救出活動のために
たくさんの人が行き来し、緊急事態発生の
雰囲気がひしひしと伝わってきます。
三宮の店舗の被害
朝9時頃、奥さんと一緒に車で三宮に向かいました。
車で三宮に行くことは、
あとから考えれば無謀なことなのですが、
あの時は情報がなく、何が起きているのかも
わからないままハンドルを握りました。
岡本を出て三宮に向かう途中、
2号線を走っている時に、神戸製鋼本社のある
脇浜の岩屋交差点辺りでは高架道路が倒れ、
巨大な壁のように道を塞いでいました。
高架道路が倒れて立ち塞がっているとは
思ってもみなかったので、
この壁は何の壁かわかりませんでした。
車が走っていない路面には、
荷台から転がり落ちた
ミカンが散らばっていました。
灘区の国道沿いでは火災が発生し、
炎と煙の中を車はくぐり抜けました。
ボーリング場の広告塔が道路に落下し、
国道のすぐ端に転がっていました。傍で見ると、
なんだろうかと一瞬考えました。
少し離れてみると
ボーリング場のピンの巨大模型でした。