追悼 阪神淡路大震災 あの日のことを忘れないように あの日から29年が経過しました
投稿No:9770
追悼 阪神淡路大震災 あの日のことを忘れないように あの日から29年が経過しました
忘れないで、災害を忘れないで
今日、1月17日は
阪神淡路大震災が起こった日です。
震災が起きてから、今日で29年を迎えました。
毎年1月17日になると、思い出が蘇って来ます。
あの日を忘れてはなりません。
1995年1月17日午前5時46分に
淡路島北部を震源に発生した
マグニチュード7.3の大地震による大災害です。
近代都市を襲った最大震度7の揺れにより、
建物倒壊や大規模火災などで
死者が6,434人にのぼりました。
毎年、この日には
阪神淡路大震災の時のことを回顧しています。
今年、2024年1月1日には、
石川県の能登半島で
最大震度7の揺れを観測する地震が起きました。
建物の倒壊や津波の被害などが確認されています。
心よりお見舞い申し上げます。
天災は、忘れないようにすることが
天災への備えになります。
この時の、様子の一部を震災記録に残しています。
何かの教訓になるかもしれません。
1995年1月17日未明に起きた
阪神淡路大震災の壊滅的な恐怖は、
体験してみなければその怖さはわかりません。
罹災した皆さんには不幸な出来事でした。
突然の大地震に遭遇し、
多くの犠牲者が出たなかで、家族は全員
無事に生きられてよかったと、幸運に感謝しました。
人生は思うようにはいかないものです。
繁盛していたお店は倒壊して、
商売は止まりました。
交通機関は麻痺状態、社員の安否も分からず、
例え元気でいても出勤はできませんでした。
今日からは、昨日とは違ったことを
しなければならないのだと考えました。
震災に対して「おもしろい」とは思えませんが、
これまで築いてきた有形・無形の資産に対しては、
どこまで復興できるのだろうかと、
闘志のような緊張感と、
私がなんとかしなければと思う責任感が湧いてきました。
後日への伝承として、記録に残すことも大切です。
罹災体験記録は
こちらで紹介しています。
詳しくはこちらをご覧ください。
■阪神淡路大震災 ページまとめ
■阪神淡路大震災1日目 ~
■阪神淡路大震災体験記 ダイジェスト
東灘区で、ジェットコースターのような揺れを感じ、
すぐに、三宮に駆けつけて、
地震後のさんプラザビルが大打撃を受けた、
あの日の驚きが、今も頭に蘇って来ます。
大きな被害を受けたもものの、
命に関わる被災もなく、
今日まで過ごせたのも、皆さんのおかげです。
震災後の復興の大変な時期を乗り越え、
こうして今、同じ場所でお客様を
お迎えし続けていられることには、深い感慨があります。
今回は、社長経営学より
震災当日の話を詳しくご紹介いたします。
阪神淡路大震災の当日に起きたこと
1995年1月17日未明、
午前5時46分布団の中で寝ていた身体が、
いきなり激しく持ち上げられ、
そして叩きつけられるような上下の
揺れと衝撃で目は覚めたものの、
何が起きているかわかりませんでした。
ジェットコースターに乗って
激しく揺れている光景を思い出しました。
つかまる物も無く、布団の中から立ち上がるも出来ず、
ただひたすら、早く揺れが収まる事を願いました。
振動装置の機械を使って
人工的な振動を起しているようにすら感じました。
後から分かったことは、
激震の時間はわずか60秒にも満たない一瞬の時間だった、
ということです。恐怖の時間は一瞬ではなく、
とても長く感じました。
布団の中では早く収まって欲しいと
思う気持ちがいっぱいでした。
激しい揺れが収まった時に、
やっと立ち上がる事ができました。
幸い、私の寝ていた部屋の周りや
布団の周りには倒壊物が無く、
身体には損傷が無いことがわかりました。
起き上がって奥さんの安否を確認するために、
大声で「大丈夫か!」と叫び続けました。
奥さんにも幸い損傷が無いことがわかり、ホッとしました。
1階の居間を見れば、
南東の壁に向かって据え置いていたピアノは床を横断し、
北西の壁際まで移動していました。
ピアノの脚にキャスターが付いていたので、
倒れないで済んだようです。
海水魚を飼っていた水槽は床に倒れ、
辺り一面海水が撒き散っていました。
部屋の中はまるで略奪を受けたように
滅茶苦茶に散乱し、食器やガラスの破損のた
め素足で歩く事は危険でした。
「火の用心」が頭をよぎり、
直ぐにガスの元栓を止め、奥さんと共に
外に避難することにしました。
ところが、玄関のドアが開きません。
地震の衝撃で玄関のドアが開かなくなっていました。
力いっぱい引っ張り、
壊れる事を覚悟でこじ開けて外に出る事ができました。
1月の早朝は薄暗く、
家の辺りはまだ薄靄の中に
うっすらと陽が上がり始め、
夢の中にいるような思いでした。
岡本の天井川のところまで歩いてみると、
新聞配達のお兄さんが、走りながら
「大変や、大変や」と叫んでいる姿を見ました。
何が起きたかわからないまま、新聞配達のお兄さんに
「おはよう」と言って通り過ぎました。
外は寒く、
寝巻きのままでは震えそうな寒さなので、
もう一度家に戻り、何か着る物はないかと、
探しに家の中に戻りました。
もう一度部屋を見れば、
家の中は何もかもが散乱していて手も付けられず、
電気もつかない暗い部屋の中で、
やっと服を見付け着ることができました。
テレビもラジオも我が家には無いので、
さっぱり状況がわからないまま、
近くの姉のところに行ってみました。
200mぐらいの距離ですが、
地盤の違いなのか、姉の住まいは
ほとんど無傷でドアも開き、
部屋の家具の倒壊もありません。
ここでしばらく夜明けを待ち、
ようすを見に車で三宮に行くことにしました。
夜が明けるに連れて、
周りが見えてきました。
岡本地区の近隣の家は昔ながらの瓦造りの屋根が多く、
瓦屋根のお家は倒壊している家が多い事がわかりました。
動くことができないのか、
毛布にくるまって道路に座り込んでいるお年寄りを、
家族の方が介護している姿が見えました。
半壊しているお家では2階の窓から家に入り、
中にいる逃げ遅れた人や、
自力で歩けない人を救出する作業が
少しずつ始まっています。
一軒一軒の家で起きたことは
外からは詳細はわかりません。
まず、頼りになるのは家族や同居人でした。
大声で助けを求める家族の方の声を聞き、
何人かの人が集まり救出の
お手伝いをしているお家もありました。
地震は突然のことだったので、
枕元に置いていたコンタクトがすぐには見つからず、
家の中で探してやっと見つけましたが、
水道水は出なくて洗うにも困りました。
情報の80%以上は目から得られていることは、
この時によくわかりました。
コンタクトを装着すると、これまで、
ぼんやり見えていた地震の状況が打って変わって、
はっきりと見えてきました。
ご近所では、救出活動のためにたくさんの人が行き来し、
緊急事態発生の雰囲気がひしひしと伝わってきます。
三宮の店舗の被害
朝9時頃、奥さんと一緒に車で三宮に向かいました。
車で三宮に行くことは、
あとから考えれば無謀なことなのですが、
あの時は情報がなく、何が起きているのかも
わからないままハンドルを握りました。
岡本を出て三宮に向かう途中、
2号線を走っている時に、神戸製鋼本社のある
脇浜の岩屋交差点辺りでは高架道路が倒れ、
巨大な壁のように道を塞いでいました。
高架道路が倒れて立ち塞がっているとは
思ってもみなかったので、
この壁は何の壁かわかりませんでした。
車が走っていない路面には、
荷台から転がり落ちたミカンが散らばっていました。
灘区の国道沿いでは火災が発生し、
炎と煙の中を車はくぐり抜けました。
ボーリング場の広告塔が道路に落下し、
国道のすぐ端に転がっていました。傍で見ると、
なんだろうかと一瞬考えました。
少し離れてみるとボーリング場のピンの巨大模型でした。
震災後の初期活動が早かったので、
なんの交通規制も受けないで三宮には
スムーズに到着しました。
三宮は人影も少なく、
静かでまだ被害の状況は把握出来ない状態でした。
さんプラザビルに入ってみると
明かりは全て消えて、洞窟の中に
入っていくような不気味さを感じました。
吹きぬけのあるホールの、
動きの止まったエスカレーターを歩いて登り、
3階へ行きつく途中は、天井から落下した
ガラスの破片が飛び散っていました。
鍵を開けて我が社の店内へ入ってみると、
光学機器は横転していましたが、
幸いなことにコンタクトの在庫は
ロッカーに入れてカギを掛けていたために、
散乱することもなく無事でした。
在庫が無事ならいつでも販売できると、
すこし安心しました。
誰もいない暗いビルの中を、自然の光を頼りに、
階段を降りて地下の保安室へ行ってみました。
宿直の保安員の方は、
まだ被害の状況を把握出来ていませんでした。
さんプラザビルを外から見れば、
それほど被害はないように見えましたが、
後からわかったことは、ビルの6階部分の支柱が折れて、
ダルマ落としのように階層が重なり合っていました。
さんプラザの北東の角にある、
太平閣の側にある公衆電話のところに
電話を掛けにいきました。
当時は携帯電話もなく、公衆電話が頼りで
市民の皆さんは、電話で安全確認や
業務連絡をとろうとしました。どの公衆電話にも
人の列ができて、なかなか順番が
回って来ないので電話はあきらめました。
三宮駅前の東急ホテルに避難所を
確保しようと行ってみましたが、
東急ホテルのロビーにも毛布に身をくるんだ
避難の人々が溢れ、とても避難所として
ホテルを利用することは難しいことがわかりました。
ホテルには旅行者の方が
一泊のつもりで昨夜から滞在している方がいました。
何も持ち出せないまま、
毛布にくるまって寒さに震え、
恐怖に耐えているようです。
センター街の倒壊状況
センター街に行ってみると
アーケードは商店街に落下し、
落下した鉄骨は剥き出しのまま
道をふさいでいました。神戸で一番賑やかだった
センター街のアーケードは崩れ落ちて、
これまでの賑わいは一切ありませんでした。
野村証券ビルは普段見えない部分
がむき出しになり、ぐちゃぐちゃになっていました。
全てのお店のシャターは
閉じたままで、歩く人影もまばらです。
柏井ビル 倒壊直前
状況がわかるにつれて、
安全な場所に避難をする必要を感じました。
三宮から新神戸へ向う大通りに面して、
取引先のメニコン神戸営業所が入っている
柏井ビルがあります。柏井ビルは10階建てですが、
見た目にわかるほど道路側に傾きかけていました 。
私が通過した時は、傾いて立っていましたが、
その後すぐに道路側に倒れ、その向いのビルを破壊し、
道路を塞いでしまいました。
(写真出典:阪神大震災全記録1995年3月(神戸新聞社))
交通の支障となっていたので
緊急措置として車が通れるようにとくり貫かれました。
兵庫県眼科医師会の会長宅をお見舞いに訪れて、
今後の対策や指示を頂こうとも思いました。
ご不在のようで、家の中からは応答が得られず
お会いすることは諦めました。
そうこうする内に、市街地にはだんだんと
避難の人が増えてきて、災害現場の
雰囲気になってきたので、一旦自宅に戻る事にしました。
不安な一夜
冬の日没は早く、何時の間にか夕暮れになり、
今日一日が終わりかけています。
テレビもラジオもないまま情報は得られず、
最も被害の軽かった姉の家に兄弟家族が集まり、
これからの対策を考えました。
乏しい情報の中で、
長田地区では夕方頃火災が発生し、
それを取材するヘリコプターの爆音が
一層不安を煽るようで、不安な夜になってきました。
停電のため明かりもないなかで、
震災後初めての夜が更けていきます。
余震が時々あり、揺れが恐さを思い出させます。
寒さ、空腹、水、連絡など、不安なことがいっぱいでした。
僅かな情報を元に推測しながら、
長い時間今後の対策を考えるうちに深夜となり、
朝からの着のまま姉の家で寝る事にしました