投稿:2004年の波照間島(その2)

宿に戻ると、ご主人が「泡波」を振舞ってくれました。この泡波は波照間島にただ一つある醸造所が作っている泡盛で、生産量がとても少ないため、通の間では大変貴重な泡盛です。
これを、本日の満員御礼の記念に開けてくれました。

後富底周二さん

宿のおかみさんがとても愉快にお話しをしてくれます。宿泊者の間でも、見知らぬ人同士ですが、お酒を飲んでいくうちに打ち解けていきます。

沖縄民謡の話になりました。すると宿の親戚の方でCDを出しているプロの方がいるとのことで、おかみさんが電話すると、急遽来てくれることになりました。

後富底周二さんという方です。今では、波照間島の伝統的な民謡を全て受け継いで演奏できるのは、彼一人しかいないそうです。

後富底周二さん

島で農業を営んでいます。今日は、頼まれていた近所の家の牛の世話をしてから、宿に駆けつけてくれました。

作業ズボンに、よれよれのTシャツ、手ぬぐいを首にかけ、長靴を履き、鼻の下には立派な口ひげをたくわえ、ぱっと見たところ、ただのオジサンにしか見えません。

演奏が始まり、歌声が響くと、プロの音楽家の腕と声に心底感動しました。まず、波照間島の伝統的な歌を披露してくれました。

宿泊者の中に一人、三線(サンシン)を練習しているという女性がいるので、「一緒に演奏しよう」ということになりました。

その女性はたいへん緊張して三線を弾き、歌いました。後富底さんは奥様と一緒に、横笛を吹いて演奏をサポートし、盛り立てます。

後富底周二さん

宿泊者からのリクエストタイムになりました。

誰かが、最近、映画やテレビなどで有名になってきた「十九の春」という歌をリクエストしました。この歌は波照間の歌ではないのですが、よろこんで引き受けてくれました。

「♪私があなたに惚れたのは~♪ちょうど十九の春でした~♪ いまさら離縁と言うのなら~♪元の十九にしておくれ~♪」

という馴染みのある一番を歌い終えると、二番からは、即興の詞をつけて、今日の出来事などを面白おかしく歌いだしました。

これがおかしくておかしくて、みんな大笑いしながら、手拍子を叩きながら、一緒に歌い、とても盛り上がりました。
この辺がプロの演奏家のサービス精神なのでしょう。

後富底周二さん

一服して、彼がどうして歌の世界、しかも沖縄の伝統的な民謡の世界に入ったか、そしてどんな努力と苦労をしてきたか、話してくれました。

沖縄の離島では、今も音楽が盛んです。元々この島で生まれ育って、無意識のうちに音楽に触れてきたのですが、高校を出ると、みんなと一緒に本土の工業地帯に働きに出ました。

ある日、工場で働いて疲れて、一杯やっているときに、同郷の友達が、故郷の島の歌を歌ったそうです。この歌を聴いて、「俺が本当にやりたかったことはこれだ」と決心し、島へ帰りました。

しかし、島には音楽を系統だって教えてくれる人などいませんでした。みんな自分の親やその親、そのまた親から聞いたり教わったりして、なんとなく覚えているだけで、楽譜や歌詞がきちんと残っているわけではないことに気が付きました。

そこで、演奏の技術は沖縄本島の先生にお願いし、歌詞については、島で歌を覚えている最後のおじいさんに直接聞いて、書き残していきました。

波照間島

波照間島は、本島から見ても随分と離れたところにあります。どうやって教わったらいいのか考えました。そこで、自分の歌と演奏をテープに吹き込み本島の師匠に送り、それを聞いた師匠に電話で指示をいただくという方法をとりました。

先生が不足している中で、なんとか師匠の言うことを聞き取って理解しようと、電話に噛り付き、受話器にカセットレコーダーを押し付け録音し、コツコツと練習していきます。

沖縄民謡は、三線を弾く技術はとても難しく、発声法も独特です。電話口に噛り付いて聞き取って、テープを聴きながら一晩練習して、次の日も練習して、また次の日も練習して、何日も何日も練習して、それでも出来ないこともあります。

そしてある日、どうしても弾けないことがあって、もう歌うのもいや、弾くのもいや、ついに三線を見るのもいやになり、海に投げつけ、「もうやめた!」となったこともあったそうです。

若い頃のそんな苦労と努力の話を聞いていると、南国ムードに浸ってのんびりと旅している自分が恥ずかしく感じました。

今では、指導的な立場に立って、沖縄の八重山地方の伝統的音楽をあちこちで教えたり、審査会に審査員として参加したり、プロのミュージシャンとして東京や大阪で演奏したり、と大忙しのようです。