阪神大震災の後の秩序を求めて:阪神淡路大震災後20日目~23日目

 メニコンは、どの会社が復興に立ち上がってくるか、様子を見ています。
震災前の取引先と、震災後の取引先に、支援の比重に差が起きそうです。

「制服着用を再開 」

今日の日曜日、高校に進学している次女から大学に行く進路の相談が電話でありました。

本来、大事なことなので自宅に戻ってきて進路の相談をするべきなのですが、交通機関が麻痺しているため電話連絡となりました。

今、震災の復興に気を取られていますが、娘にとっては大事な大学受験を控えているということです。

どこを受けるかという問題になるわけですが、やはり親と相談してどこにするかを決めることになります。

彼女は医学部への進学を志しているので、どこを受けるかといっても、自分の学力の範囲と、家から通うか、外に出るかの選択肢も大きく変わってきます。このようなことを電話で相談された後で、会社に出社しました。


【イメージ画像[交通機関麻痺]】
アサヒグラフ緊急増刊号1995年2月

ぼつぼつお客様が来るようになったので、ちょっと忙しくなりました。今日はメニコンの名古屋の本社から幹部の方がお見舞いに来てくださいました。

メニコンに対して何を支援してもらうか、色々希望があります。その中で今、足りないことをお話して、メニコンに協力を仰ぐようにしました。

メニコンからとってみると、神戸の市場は我が社だけではありません。たくさんの取引先の中で誰が一番に復興に向かって立ち上がってくるか、そしてメニコンにとって本当に支援したいのは誰かという問題があります。

本当に支援したい人が一番に立ち上がってくれれば一番いいのですが、そう上手くはいかない場合は支援したい人を差し置いて一番に立ち上がった人に復興支援するかどうかの問題が出てきます。

メニコンの方から見て、神戸の市場を今後誰に頼り、誰とパートナーを組んでいくのか、これははっきり言えることではありませんが、やはり過去の長い付き合いにより、我が社以外の取引先も数多くありますから、その中で平等な復興支援ができるかどうかが問われてきます。

 


復興支援をするメーカー側から見ると、今後数年のうちに神戸の市場に秩序が戻ってきたとき、あの時に誰を中心にして復興支援をしたかを問われる時が来ると思います。その時に対して、説明できる状態で復興支援をしておかないと、後々こんなはずではなかったと後悔しないように考えていると思います。

>阪神淡路大震災20日目:1995年2月5日(日)


 

新しい職場で、心機一転、今日から制服を着て仕事をするようになりました。医療関係、及び医療従事者として清潔な身なりを整えて本格的に業務の再開となります。

朝のミーティングの時に、従業員の男性の小山君から、「これからは遅刻しないように」という注意の意見が全員に対して出ました。

遅刻をある程度することは仕方がないのですが、遅くとも何時までには来ようという努力目標を持って家を出ないと遅刻は続きます。

お客様、患者様が少しずつ私たちを頼って来ていただけるようになると、私たちはサービスを開始する時間内に揃っていないと、協力して仕事ができなくなるということになりますから、ここは頑張って出社してもらうようにお願いしました。

このように私からは緊急時の非常事態であるということ、そして私たちはこれからはコンタクトレンズで困っている方へ、サポーターとして仕事をしなければならないことをお話しました。

 


えらいことです。頼りのコンピューターが動きません。素人の我々ではせいぜい叩いてみるしか対処方法がわかりません。ゆすっても叩いてもコンピューターは反応してくれません。さあ、今から復興の案内を出そうと思っている時に、頼みのパソコンは息が止まってしまいました。

このパソコン君は我が社の弱みを握っています。パソコン君のご機嫌を損なったり、寝込んだりされると、データ入力を受け付けてくれません。ダイレクトメールの印刷もできなくなります。

料亭の女将さんが、調理場の板さんに気を使うように、板さんが機嫌を曲げると女将さんはハラハラするようなものです。さあ、板さんは機嫌を直してくれるのでしょうか。

>阪神淡路大震災21日目:1995年2月6日(月)


 

【イメージ画像[交通機関麻痺]】
アサヒグラフ緊急増刊号1995年2月

コンピューターの件について、システムハウス企画の岡本さんに相談をしたところ、大阪から電車で行けるところまで電車で、その後は歩いてコンピューターの復旧に駆けつけてくれました。

板さんのために往診に来てくれたお医者さんのように、今日はこのパソコンの診断をする先生が頼りです。どうなることかとハラハラして診断を待っていましたら、それほど病状は悪くなく、むしろ、「な~んや!」というようなことでした。

それはさんプラザから今西ビルに運ぶときに配線をいったん抜き、そして運んでセットアップした時の配線のミスということが分かりました。配線を変えるだけでコンピューターは素直に動き始めました。板さんはご機嫌を曲げていたのではありませんでした。居眠りをしていただけでした。

これでわざわざ往診に来てくれたのが申し訳なかったのですが、しかし、これを直すことができなかったので、原因を見つけ、パソコンを復旧させることができて大変助かりました。

社長の私としては、大騒ぎをしてわざわざ大阪から来ていただいたのに、単に「配線ミス」では、格好も悪く、大変恥ずかしい思いをしました。無知とはこのように恥ずかしいことかと反省します。

しかし、せっかく来ていただいたので、震災後のその後のコンピューターについての取り組みについて、意見を交換して、そして御礼を申しあげてお帰り頂きました。ありがとうございました。

>阪神淡路大震災22日目:1995年2月7日(火)



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です