宜野座村立博物館、宜野座の歴史 宜野座に電気がつき始めたのは、 1963年頃からです。

宜野座村立博物館で、宜野座の歴史を勉強しました。 宜野座は、珊瑚の海と、緑に覆われた、山野が広がる美しい村です。 第157回沖縄(17) 

宜野座村立博物館にきました。

入館料は大人100円です。

宜野座村立博物館は、

郷土作りに寄与し未来を創造する博物館として

平成6年に開館されました。

気軽に入れる博物館を

目指していると紹介されていましたが、

入館料の100円には驚きです。

宜野座村立博物館 見学 ギャラリー

展示されている当時を再現した人形は

全て等身大のつくりになっていました。

宜野座村の歴史

宜野座が歴史に登場する以前の様子は、

村内にある貝塚などの遺跡によって

断片的に知ることができます。

なかでも福地川の河口北側にある前原貝塚からは、

オキナワウラジロガシの実の

炭化物が多量に出土してお り、

当時の食生活を垣間見ることができます。

宜野座にはグスク時代の遺跡も数力所あり、

継続してこの地域に

人々が住んでいたことが推測されますが、

現段階では具体的なことはまだよくわかっていません。

1649年の『絵図郷村帳』に出てくる

現在の宜野座村域の地名では、

古知屋、宜野座、惣慶、漢那の4村。

ほかに「 はま村」が見えますが、

のちに漢那村に合併されました。

これらの村々は金武間切に属して

「上四ヶ」とも称さ れ、

地域としてのまとまりをもっていたとされています。

伝承によると、いつ頃かははっきりしませんが、

この地域へ島横目役として

宜野座という姓の役人が派遣され てきたといわれており、

その島横目屋敷跡も残っています。

17世紀中頃からの間切再編で、

1695年古知屋村は久志間切に移管されましたが、

古知屋の祭祀が宜野座ノロ の管掌下にあったことから、

1719年にはもとの金武間切に復帰しました。

現在の宜野座村域の村々は、1872年琉球藩、

1879年沖縄県の所管となり、

1896年国頭郡に所属。

1908年島嶼町 村割により、

金武間切の古知屋、宜野座、惣慶、漢那の4村と

現金武町域の3村をもって金武村が成立。

その後、終 戦後の1946年、

金武村の一部が分村して宜野座村が成立しました。

1879年の廃藩置県前後から、

宜野座村域にも屋取集落

(首里の士族が移りすんだ集落)ができはじめ、

アニンドー、 城原、大久保、兼久、前原、潟原などの

屋取集落が形成されました。

1935年以降には福山、古知屋の開墾と人植が はじまります。

これらの大半は現在も小字名として存在しており、

城原と福山は終戦後、宜野座村の

分離・独立と 同時に行政区となりました。

出所:宜野座村勢要覧(改訂)より抜粋

宜野座村の歴史年表によれば、

縄文時代早期の頃、九州より縄文人が渡来し、

宜野座村にも定住が始まったそうです。

縄文時代前期には、

宜野座の土地に、貝塚が残されています。

縄文時代後期には、

宜野座の砂丘と、海岸沿いには、

小さな貝塚が作られています。

実際に使われていた民具が沢山かざられていました。

平安時代から鎌倉時代の頃には、

漢那地区中国・高麗産の青磁がもたらされています。

南北朝時代になると、

漢那で鍛冶が営まれ、

農具・刀子・武器などがつくられています。

農業が盛んになり、水田が行われ、

牛・犬の家畜が飼育されたのもこの頃です。

1627年金武朝貞が、

薩摩から茶の種子を譲り受け、

茶を漢那村に植えました。

江戸時代中期の頃には、

クヂチ墓がつくられていました。

その墓からは、

宜野座の人の身長が男性157.5cm、

女性149cmと、小柄で

筋肉が発達していたことが残っています。

1750年頃には、

宜野座で馬・山羊・豚・猫・鶏が

飼育されるようになっていました。

1853年には、

アメリカのペリー総督が漢那を通っています。

時代は移り、宜野座に電気がつき始めたのは、

1963年頃からです。

1972年、沖縄が日本に復帰した頃、

宜野座の人口は、かなり減り、

3500から3600人くらいまでになっています。

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2016年2月4日(木)


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