沖縄琉球空手道 第73回沖縄訪問(4)
沖縄琉球空手道 沖縄民話「手が出たら意地を引け」 沖縄恩納村「朝日会」その3~手ヌ出ジラー 意地引チ・意地ヌ出ジラー 手引チ~
【第73回沖縄訪問:神戸空港から沖縄へ 神戸から沖縄が近くなりました その4】
2006年2月17日(金)朝日会で今日初めてお会いした方は沖縄少林琉空手道国際連盟柔術協会 誠守館 館長の伊波 肇さんです。空手は6段だそうです。
今夜もさつま白波の焼酎をいただいています。
上間光元さんが焼酎によく合う、タコの刺身とサザエの刺身を持ってきてくれています。
女性ダイバーのマチダさんは家で作った野菜と昆布の煮込みのお料理を持ってきてくれています。
たくさんの人が集まって宴会が始まっています。
沖縄に憧れて、美しい海と綺麗な珊瑚礁と熱帯魚を追い求めて、ダイビングショップで楽しくお仕事をしていても、だんだんと趣味から仕事へと責任が変わってきます。
沖縄には本土から沢山のダイバーがやってきて、インストラクターの仕事をしています。
ダイビングショップにとっては、夏の忙しい時だけ採用して、オフシーズンには仕事がなくなる時があります。
ダイビングが大好きで、海に潜れるなら給与のことはあまり気にしない人たちもいます。そのようなダイビングショップの買手市場の沖縄では、長期的にダイビングで生計を立てるのは大変なことなのです。
話が弾んでいると入れ替わり人がやって来て、パッションフルーツが届きました。パッションフルーツを真二つに切り、その中に焼酎を入れて飲みます。とっても美味しい焼酎となりました。
パッションフルーツはツルの枝に実り、食べ頃に熟すとパッションフルーツの実は地面に落ちます。その落ちたパッションフルーツを拾って持ってきてくれています。パッションフルーツの大きいのは10個で1キログラムで、キロあたりの価格はおよそ3000円ぐらいです。おいしいパッションフルーツは宮崎から沖縄に来ます。沖縄では自然に結実しますが、宮崎では温室栽培になります。
山城興善さんのお話によると、沖縄の農業を宮崎が真似して、宮崎が沖縄にパッションフルーツを売りこんでいます。しかし実際においしいのは自然に出来る果物です。自然のものが一番おいしいのです。
大変めずらしいものが届きました。にんにくの黒砂糖漬けです。
これを食べると風邪をひいた時ものどの腫れが引くようです。匂いはきついですが、黒砂糖に漬け込んでいるので甘みが、にんにくの辛さを中和してくれています。
伊波 肇さんとのお話です。伊波 肇先生は沖縄少林琉空手道国際連盟柔術協会 誠守館の空手6段の先生です。
伊波さんは沖縄の空手の心を話してくれました。沖縄の空手の心には、相手を攻撃することや、相手を傷つけるが、本来の目的ではありません。
自分を守る、相手を気遣う事が空手の根底にあります。これを、「手が出たら肘を引け、肘が出たら手を引け」といわれました。
沖縄の民話に、こんな話があります。それを伊波さん、冨着信常さん、山城興善さんが松葉博雄に教えてくれました。
はじめ、何のことを言っているのか、わかりませんでした。三人の人が、それぞれ、沖縄の方言も一部交えて、沖縄民話を話すのですから、少しずつ三人に違いもあり、松葉博雄は三人に、少し聞いては尋ね、少しずつ民話の内容の理解を進めてみました。琉球空手道から始まった、沖縄の民話の大意は次の様な話です。
沖縄の民話
手ヌ出ジラー 意地引チ・意地ヌ出ジラー 手引チ
「手に振り上げたこぶしは、 振り下ろす前に心を静かにしなさい、 相手を傷つけようと心が騒いだら 手を引きなさい」 と他人を傷つけることをいさめた教訓です。
沖縄が九州の薩摩の支配下にあった頃のことです。糸満にいた漁師が、沖に出て漁をしていた時、シケに遭い、サバニもろとも波に呑まれてしまいました。 なんとか岸まで泳ぎつくことができたものの、大事な漁具をすべて失ってしまいました。 困り果てたこの漁師をみて、薩摩武士が金を貸しました。翌年の三月までには返すことを約束しました。
返済の日がやってきましたが返すことができないことを深く詫び、次の年には必ず返すことを約束しました。しかし、次の年にもやはり返すことができず、また次の年までと願いました。しかし、翌年も 返すことのできない自分をはずかしく思い、薩摩の武士の姿をみつけると海の近くにある洞窟に身を隠しました。
薩摩の武士は怒り、お金を貸して返さない漁師を刀で切ろうとしました。漁師は、命こいをして、言いました。沖縄の諺では、「 手ヌ出ジラー 意地引チ・意地ヌ出ジラー 手引チ」 短気をおこしたら、手を出さないようにし、手が出ようとしたら、心をしずめよ。と戒めています!」
それを聞いた武士は「よろしい今度だけは勘弁しょう。きっと来年までにはお金を準備しておくように!」と言って、薩摩へと再び帰って行きました。薩摩に着 いた武士は、家に入ると、 玄関にみたこともない男ものの履物がありました。武士が部屋に入ると、妻が男と寝ていましたので武士は、怒り男を殺そうと刀を振り上げました。
その時武士は漁師の言った 『 手ヌ出ジラー 意地引チ・意地ヌ出ジラー 手引チ 』という言葉を思い出し心を静めて男をよく見ると、それは留守中に女家族だけだと無用心なので、男物の着物を着た母親で、危うく自分の母親を切るところでした。
次の年、薩摩の武士は沖縄の漁師の元へ行きました。漁師は借りたお金を差し出しました。しかし、薩摩の武士は、母親を殺さずにすんだことを話し、お金を受け取ろうとはしませんでした。
借金を返す、受け取れないと、双方の押し問答は続き、互いに譲り合って、受け取ろうとしませんでした。 そこで、その金を洞窟の中に埋め、その前にお堂を建て、糸満の男達の海上の平安と村の繁栄を祈ることにしました。それには、薩摩の武士も大賛成しました。
それからこの洞窟を白銀堂と呼ぶようになりました。
参考資料:[白銀堂由来記]
2006年2月17日(金)