1994年9月の沖縄県 Part5~座間味島から帰宅~

 

今日は座間味を去る日です。清清しい小鳥のさえずりの音で座間味島の朝が明けました。帰る日は海に入るゆとりはなかったので、島を一人歩いてみました。

沖縄のどこの島でも共通していることは、台風に対する備えをしていることです。昔の民家は家の周りを石垣を積み、風除けを作っています。

木を植えるなら防風林となるフクの木などの台風に強い木を植えます。

鉄筋コンクリートを建てる場合は、一階部分を駐車場などに使い、高床式の構造にし、風が床を吹き抜けて湿気の少ない通気性の良い建て方にしています。集落では、家と家の道幅は狭く、かなり小型車でなければぶつかってしまいそうな感じです。

 


 

 

離島にとって食べ物の中にもう一つ大切なことは、飲料水の確保です。水が湧く島もありますが、雨水を貯めてダムに貯水することが普通です。飲料水がどのぐらいあるのか、座間味ダムのある方向へ行き、貯水池を見て回ります。

台風のシーズンの後だったので、今は水の心配はありませんでした。ダムは山の谷間を利用して水を貯水しているので、当然高台にありました。山を下るときに島の港の方向が一望できます。

昔風の木造住宅はあまり見当たりません。ほとんどのお家は風に強い鉄筋コンクリート造りに変わっているように思いました。


 

山から下りて座間味村役場に行くと、座間味諸島周辺では毎年、1月~4月にかけてザトウクジラが繁殖のためにやってくるので、ホェールウォッチングが可能なんですよと言われました。戦後の復興期の頃は、日本は動物の肉をクジラに頼り、世界でも最大級の捕鯨量を誇っている時代がありました。学校の給食にもクジラの料理がよく出たものです。

クジラの竜田揚げとか、薄く切ったクジラのステーキ、カツレツなどが出た思い出があります。

それがクジラを保護する国際的な運動の前には日本も捕鯨を自粛せざるを得なくなり、今では商業捕鯨は止まり、わずかに学術調査と称する試験的な捕鯨と他国からの輸入したクジラ肉を食べる程度になっています。しかし、クジラの保護のかいがあり、10年経った今ではケラマ諸島にもホェールウォッチングを観光資源として楽しめる時代になりました。

村営のフェリーざまみは、2月、3月の週末には定員150名でホェールウォッチングをしています。

ぐるりと中心地と見て回り、私の座間味の2泊3日の旅はいよいよ終わりになります。なんだか生まれ育った村を離れ、街に出て行くような寂しさです。映画であれば行きずりのわずかな間に、熱い記憶とときめくようなドラマがあるのです。

イタリアであれば、ベネツィアの「サマータイム・イン・ベニス(旅情)」がありました。行きずりの旅行者とその土地で生活を続けている人のちょっとしたきっかけから、新しいドラマが始まります。ローマだったらオートリ・ヘップバーンの「ローマの休日」がありました。これも王室の王女が旅先でなんらかの変化を求めて、いつもと違った生活の中からドラマが生まれました。

座間味島では残念ながら旅行者は旅行で終わりました。船は港に停泊し、私が乗船後、しばらくすると定刻通りに力いっぱいエンジンをふかし、港から沖へ沖へと走りぬけ、那覇の泊港へと一直線に向かいました。またいつの日か、今度はたくさんの人たちと一緒にケラマ諸島の座間味へ行きたいものです。

(完)

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