出石そば:出石は出石そばだけではありません。辰鼓楼、対面所跡、出石城、家老屋敷、お城まつりなどもあります。
辰鼓楼、対面所跡、出石城、家老屋敷、お城まつりなどもあります。但馬へ近隣ツアー(3)
出石そばといえば、出石ですが、出石はそれだけではありません。
辰鼓楼の周りの散策は続きます。秋の日差しで、とてものどかな景色です。
出石のお天気は、曇りや雨が多く、こんな良い天気に恵まれるのは、珍しいと言われました。
辰鼓楼は、場所に寄って、季節によって、時間によって、随分といろいろと趣きが変わるというお話を聞きました。誰に聞いたのかと言えば、ガイドさんです。
今日は、地元のガイドさんに、出石をガイドしてもらいます。
これまで表面的に見ていた出石が、より深く理解できるようになりました。
最初に見たところは、対面所跡です。
これは、出石城の向かいにある御殿ですが、出石城は元々山の裾で日当たりも悪く、湿気も多く、お殿様は何人も病弱でした。
とうとう、これではいけないということになり、松平の殿様の時に、お城から離れて日当たりの良いところに御殿を移したそうです。
これは正解です。日が当たらないと、健康に悪いのです。
対面所を出て、お城に向かいます。
明治の始め、全国にあったお城は、どこもお城の取り壊しにあってしまっています。今から思うと、もったいないことです。
従って、出石城も壊されてしまい、その後昭和43年にやぐらが再建されています。
お城に渡る堀も、後から掘り返されたようです。
出石の町は今、町興しを行っています。
「壊すのはもったいない」という考えで、これまであった古い民家を、何らかの形で街に合うように作り替えて、残しています。
映画館だったところは、今では外部を城下町に合うような外形にして、中ではいろいろな行事ができるようなコミュニティセンターになっています。
町興しの設計は見事なものです。
出石の町の民家は、京都の町のように入り口が狭く、奥行きが深くなっています。
それは当時の税金の掛け方が、間口に対して掛けられたからです。
出来るだけ税金を安くするために、入り口は狭く、奥が深くという、うなぎの寝床法になっています。
家老屋敷に行きます。
家老屋敷は、裏口から見るのと、玄関から見るのでは、平屋と2階建ての違いのようになっています。
これは、いつか敵に攻め込まれたときの備えだそうです。
とても立派な家老屋敷ですが、これも後から作ったものです。
江戸時代の3大お家騒動のひとつに、仙石騒動があります。
これは、家老同士が改革派と保守派で争って、幕府からおとがめを受けて、5万8千石が3万石に厳封された事件です。
出石が但馬地方の中心となったのは、山名一族が領土を広げていき、その中心の居城となったからです。
山名氏と言えば、応仁の乱を起こした山名宗全が有名です。
全国66州の6分の1を領有した大名でした。
しかし、京都で応仁の乱を起こして、11年間戦乱の元を作りました。
お城に渡るには太鼓橋がありますが、これは市民の寄付で出来た橋だそうです。
橋を架けるときの町長が、町の予算で建てる予定が、町民の寄付金が集まり、5000万円掛けて作られたということです。
今まで、この太鼓橋を5000万円とは知らずに渡っていました。
今日は、この橋が5000万円架かったことを知ったので、傷まないように、5000円万円を踏みつけないように、恐れながら、もったいなくもゆるりと歩いて、お城に入って行きます。
2009年10月21日(水)