奈良斑鳩の里 法隆寺、大和平群かんぽの宿 奈良東大寺

法隆寺を見て、大和平群かんぽの宿に泊まり、次は奈良法隆寺に参拝しました。

改めて大人の修学旅行で来た法隆寺 初めて見るような法隆寺のようです。 奈良県大人の修学旅行(2) 社長ブログ奈良/法隆寺/南大門/鯛石

法隆寺の見学の始まりは、南大門から入って行く大通りです。

5月の中旬のお天気は、修学旅行にピッタリのお天気で、沢山の制服姿の学生さんが、旗を持ったガイドさんの後を続いています。

南大門の前には大きな石があり、昔この辺りにまで魚が寄っていたという話ですが、この石は鯛石と言われて、ここまで雨が降ると水位が上がって、魚が集まったという話を聞きました。

今日は小学生の団体客、中学生の団体客、高校生の団体客と、沢山の修学旅行の生徒さん達に出会いました。

私たちが随分前に、今日のあの学生さん達のように先生方に引率され、バスガイドの後について歩いていた事を思い出そうとしたのですが、あのときの自分の姿を思い出す事は出来ません。

以前と違っていたのは、外国人観光客がとても多い事です。

明らかに顔の形が違う欧米系の人や、話し声を聞けば、これは日本語ではなぃなぁと思うアジア系の人達、予想以上の外国人観光客の多さに、改めて驚きました。

沢山の人が歩けば、乾いた土埃は舞い散って目の中に入ってきます。

お昼に、お弁当と一緒にビールを沢山頂いたので、歩く足がややもつれています。

法隆寺は、飛鳥時代の姿を今に伝える世界最古の木造建築です。

よくまぁこんなに、今までよく保存できたものです。

といっても、全てが607年に法隆寺が建てられたその時のままとは限りません。

一部部分は雷が落ちて、火事で焼失し、再建されたお堂もあります。

昔々といっても戦後の事ですが、一万円札は聖徳太子の肖像のお札が流通していました。

松葉博雄も、聖徳太子の一万円札を使った事を覚えています。

これから法隆寺の中に入って最初に回るのは、五重塔や金銅を中心とする、西院伽藍からです。

2016年5月18日(水)


法隆寺五重塔の先端の金属の重さは、約2トンです。この重さで、庇を風圧から守っています。 奈良県大人の修学旅行(3) 社長ブログ奈良/法隆寺/西院伽藍

小・中学校の修学旅行の時に見た法隆寺と、今のようにシニア高齢者になった時に見る法隆寺とは何が違うのか、と考えながら西院伽藍の五重塔・金堂・大講堂の見学に進みます。

まずは拝観券です。拝観料は、大人と子供ははっきり違っています。

大人は一人1500円です。この値段の差は、理解力による差ではなくて、経済負担力に対する差だと思います。

学生ならば、まだ自分でお金を稼ぐ事が出来ないので、親の負担を軽くするために、大人の半額の750円に設定しているのではないかと思います。

この考えは、乗り物でも、映画館などの入場料などでも、同じ値段設定になっています。

西院伽藍に入ると、中央から見れば、左に五重塔、右に金堂があり、その奥の正面には大講堂があります。

五重塔は、インドではストゥーバと呼ばれ、仏教の改装、仏陀の遺骨を納める塔と定義されています。

しかし仏陀の遺骨がそんなに沢山あるものではなく、2500年前の仏陀の遺骨が、日本中のストゥーバに納められていることは、期待できない事です。

法隆寺は日本では初期の仏教寺院なので、後から作られた寺院より、仏陀の遺骨を入手できる可能性は、後の時代よりも強いと思います。

しかし、仏陀が入滅したとき、仏陀の遺骸は荼毘にされ、そして仏陀を敬う8人の有力者に分配されたと伝承されています。

スリランカでは、仏歯寺と言われる、仏陀の歯を遺骨の代わりにお祀りしているお寺もあります。

お寺としては、仏陀の遺骨や、遺髪や、身体の一部がほんの一部でもあれば、それだけ有り難いことで、信者にも、うちのお寺は格式が高いんだと、誇れる事だと思います。

大きな燈籠が、中央部分に安置されています。

徳川綱吉の生母、桂昌院が寄付した、桂昌院燈籠とも呼ばれています。

江戸時代の作品なので、天平時代の作品とは違って、より工芸が細かくなっています。

阪神淡路大震災や、東北の東日本大震災、そして最近の熊本地方の震災でも、瓦屋根は柱にかかる重量が重くて堪えきれず、崩壊しているお寺があります。

法隆寺は、幾度か震災に見舞われているようですが、震災で全壊したお堂は一部だけのようです。

五重塔のてっぺん部分の金具は2トンもあるそうですが、それは五重塔の軒が強風に耐えられるよう、上から押さえる重しのためだという説明を聞きました。

2トンの重しが屋根が飛ばないように構造計算をしているのですから、現代のコンピューターを使って計算した時代の姉歯設計事務所とは、比べものにならない正確さです。

角度を変えて、場所を変えて、五重塔の姿を写真におさめました。

同じように見えるので掲載は絞っています。

2016年5月18日(水)


 

法隆寺と言えば、『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』です。 奈良県大人の修学旅行(4)法隆寺 聖霊院 奈良一日目

法隆寺といえば、思い出すのは有名な正岡子規が詠んだ俳句

『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』です。

その俳句を詠んだ場所に句碑があり、大抵の人はここで改めて正岡子規の詠んだ句を反復唱和しています。

この歌は、たまたま正岡子規が、法隆寺の茶店で一服している時に柿を食べていて、その食べ始めに法隆寺の鐘の音を聞き、読み下したと言われてます。

従って、柿を食べると、法隆寺からの鐘の音が聞こえるという、因果関係は全くありません。

この俳句は、松尾芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』と並んで、俳句の名句と言われていますが、どちらの歌もそれほど難しい描写ではなく、ひょっとしたら私にでも詠めそうな気がする俳句ですが、これもコロンブスの卵で、出来上がった俳句を詠めば簡単そうですが、こんな俳句が自然に詠めるようになったら大したものです。

5月の中旬のお天気の良い日に、法隆寺の広い境内を道順に沿って歩いていると、紫外線が強く、強い日差しを遮るには、広いつばのある帽子が必要です。

聖霊院は、鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像を安置するために、東室の南端部を改造した建物です。

この中には、法隆寺の御本尊である聖徳太子の45歳頃の像と、左には聖徳太子の長子 山背大兄王や兄弟皇子の殖栗王の像が祀られています。

修学旅行の団体の後を追えば、その大勢の学生達が砂埃を立てているので、汗がにじんだ顔に埃が付着して、涙に混じって目尻から目の中に染みこんできます。

これが目が痛い原因で、昔、埃が目に入って盲目になった人もいたそうです。

それを因果関係で表したのが、『風が吹けば桶屋が儲かる』の話しです。

どういうことかと言えば、

①風が吹いて、砂埃が目に入って痒いので、手で目を掻いている内に、それが原因で目が見えなくなった人がいます。

②目が見えなくなった人の生活は、芸事で生計を立てるしかありません。

③芸事に使う楽器は、三味線です。

④埃が原因で失明する人が増えれば、三味線の需要が増えてきます。

⑤三味線は、猫の皮を使って作るので、三味線の需要が増えれば、猫を捕獲することが多くなります。

⑥猫を沢山捕れば、猫が捕獲していたネズミは増えてきます。

⑦猫が少なくなったお陰でネズミが増えて、ネズミは安心して人の家のものをかじるようになります。

⑧ネズミは歯が伸びてくるので、家の中の桶をかじって、桶を台無しにしてしまいます。

⑨ネズミにかじられた桶は使えなくなるので、桶を再調達することになります。

⑩そこで、桶屋さんに桶の注文が来るようになり、この一連の因果関係から、風が吹いたら桶屋が儲かるという結果に繋がってきます。

法隆寺の境内を歩きながら、埃が目に入って、そのことから、こんな風が吹いたら桶屋が儲かるということを思い出しながら、次の場所に移動していきます。

2016年5月18日(水)


 

想像を遙かに超える、法隆寺の敷地の広さに驚きました。 奈良県大人の修学旅行(5) 社長ブログ奈良/大人の修学旅行/東院伽藍

西院伽藍から、次は東院伽藍に移動です。

法隆寺の境内は想像していたよりも遙かに広く、18万7千㎡で、坪数でいうと5万5600坪あります。

甲子園球場の4.7倍です。

法隆寺の境内の中には、所々照明の為の電柱が立っていますが、場所によっては、電線や電柱がないので、これなら、時代劇の映画に使えそうな借景です。

5月の新緑の時期なので、法隆寺に生えている木も、新緑に輝いています。

行き交う異国の人達は、この法隆寺の歴史を、どのように感じているのでしょうか?

例えばアメリカは、コロンブスがアメリカ大陸を発見して、その後イギリスから移民が始まり、少しずつアメリカの文化が築かれていっていますが、それでもアメリカの歴史は、アメリカ建国が1776年7月4日ですから、240年くらいの歴史です。

一方法隆寺は607年建立なので、1400年以上も歴史があります。

アメリカは新しい国ですが、ヨーロッパやイギリスに行けば、千年以上の歴史建造物が残っています。

ドイツに行った時も、アウトバーンを使って、近隣の国の古い建物を見て歩きましたが、ほとんどがキリスト教に関わる、宗教的な意味のある建造物です。

法隆寺にしても、背景には仏教があり、仏教を尊ぶ聖徳太子だから法隆寺を建てています。

現代のような重機のない時代に、各地から巨木を集め、瓦を焼き、お堂を建てるには、その目的として、共通する理念が必要で、その理念となったのは、ヨーロッパでも日本でも宗教です。

宗教がなければ、全員が納得する巨大建築の建立の目的は理解出来ません。

こう考えると、沢山の人をまとめるには大きな理念が必要な事を、法隆寺でも感じました。

2016年5月18日(水)


中宮寺の菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)と、広隆寺の弥勒菩薩半跏像は、よく似ています。 奈良県大人の遊学旅行(6) 社長ブログ奈良/法隆寺/東院伽藍/中宮寺

法隆寺での聖徳太子のイメージは、夢殿で学問をされるお姿です。

しかし、実際には夢殿は、聖徳太子の亡くなられた後の739年に建てられています。

八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子を偲んで、救世観音像が安置されています。

一般の人も靴を履いたまま夢殿の廊下をぐるりと一周する事が出来ます。

八角のお堂に4ヶ所扉が開いていて、扉の中を見る事が出来ました。

扉の向こうには、もちろん明かりはなくて、目が暗順応をしなければ、外の明るさからすぐに中の暗さを見ても、ハッキリとは見えません。

夢殿から向こうを見ると、絵殿 舎利殿が見えます。

こちらには入っていませんが、中には聖徳太子の生涯を絵で描いて、お祀りしているそうです。

夢殿は739年の建立なので、今年で1277年経過しています。

聖徳太子が亡くなった後、聖徳太子自身が信仰の対象になり、夢殿も観音様の化身と伝えられた聖徳太子信仰に守られて、大切に継承されて来ています。

次は中宮寺に向かいます。

中宮寺本堂は、最近の建築です。

高松宮妃殿下の御発願により、吉田五十八先生が設計され、昭和43年5月に落成しています。

今まで、世界最古の木造建築を見てまわっていましたが、中宮寺本堂は鉄筋コンクリート造りです。

中宮寺を訪れるのは、本尊の菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)を拝観する為です。

お堂にあがって、至近距離から菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)を拝観することが出来ましたが、撮影禁止なので、写真は撮れていません。

以前、広隆寺の弥勒菩薩を、ごく側で拝観したことがあります。

広隆寺の弥勒菩薩と、中宮寺の菩薩半跏像の両方とも、日本の至宝です。

何か物思いに浸り、静かに憂いを感じるお姿は、人間の業をいかにして救済するか、と深い考えを巡らせているようだと言われています。

昔、お坊さんに質問した事があります。

菩薩は男性ですか?女性ですか?と尋ねると、そのお坊さんは、子供の思わぬ質問に困って、観音様は、男でも女でもなくて、中立だと言われた事があります。

後から調べると、そんなことはありません。観音は仏の位で、男性です。女性なら、尼です。

しかし、目の前の如意輪観世音菩薩を見ていると、男性でもない、女性でもない、性別を超えた存在のようにも見えてきました。

2016年5月18日(水)


かんぽの宿は、民営化してサービスが良くなり、お客さんで賑わっています。 奈良県大人の修学旅行(7)社長ブログ奈良/旅行・宿泊/かんぽの宿大和平群

大人の修学旅行の今夜の宿は、奈良の平群(へぐり)にある、かんぽの宿 大和平群です。

ここまでは、法隆寺から送迎バスで案内してくれました。

かんぽの宿は、以前は郵政省の運営でしたが、今は民営化されています。

民営化されてからサービスがよくなったようで、今夜も沢山の団体客でロビーの受付はいっぱいの人でした。

少しだけ高台にあり、向こうの方には緩やかな斜面が広がり、この辺りは緑豊かな住宅地であることが解ります。

かんぽの宿には天然温泉があり、食事の前にまずは温泉に浸かりました。

大人の修学旅行は団体で来ているので、食事の席は、他のお客さんとは別の席を用意してくれています。

ここなら、私たちだけのメンバーなので、大きな声で話しても、個別の話しをしても、他の人に遠慮はいりません。

皆共通する話題となると、まずは健康の話しです。

どんな薬を飲んでいるのか、何を注意しているのか、病院通いはどんな受診をしているのか、こんな話しが挨拶代わりに始まります。

皆さん共通して、お酒に弱くなったそうです。

以前なら、酔いつぶれるほど飲んでいたお酒も、今はほどほどの酒量になって、あまり無茶はしないようです。

家で減塩していると、外で頂く料理は塩が利いて、辛い辛い味に思います。

こんな塩が多い料理を、若い内から最近まで、あまり気にしないで食べていたのですから、日本人が塩分のとりすぎであると厚生労働省が注意するのも当然です。

以前に書いたブログでは、厚生労働省のホームページによると、

「『日本人の食事摂取基準(2005年版)』において日本人の成人に勧められている1日の塩分摂取の目標値は、男性10g未満、女性8g未満。」

と提示されています。

今回の大人の修学旅行には、4人のご婦人が参加されています。

同窓会に出席できるのは、まずは健康である事の有り難さに感謝です。

そして、時間的ゆとりがある事も、コミュニケーションがとれていることも、必要なことです。

それにも増して、同窓会が長続きできるのは、幹事役を始め、協力してくれる人達がいるからです。

食事が済むと、一旦部屋に戻り、一番広い部屋に再び集合です。

2016年5月18日(水)


大人の修学旅行の二日目は、東大寺に行きます。 奈良県大人の修学旅行(8) 社長ブログ奈良/旅行・宿泊/かんぽの宿大和平群

かんぽの宿大和平群では、朝食はバイキング形式です。

席が空くのを待つほどの賑わいです。

お客さんは、ほとんど退職した高齢者の方が多いように思えました。

一緒に朝食を頂いた友人が、「松葉くんは、朝からそんなに食欲があるの?」と、驚いています。

周りの友人と比べると、倍以上は食べているようです。

毎朝、奧さんが作ってくれる和食を中心にして、朝しっかり食べる癖がついているので、これが普通だと思っていると、友人達の話は、会社勤めの時代から、朝食はパンと珈琲くらいで、しかも自分で手当てして食べていたそうです。

大人の修学旅行の二日目は、東大寺に行きます。

かんぽの宿大和平群がサービスで、マイクロバスを使って東大寺の近くまで送ってくれました。

奈良は今、海外からの観光客が増えています。

国内では、中高生の修学旅行のシーズンです。

どの宿もいっぱいのようで、奈良の町で昼食をとる、まとまった席すら難しいようです。

奈良の町に入って少し歩くと、緑のあるところには、木が茂っているところには、鹿が休んでいたり、草を食べています。

幹事の友人が手配してくれた事務所に荷物を置かせてもらい、身軽になって東大寺に向かいます。

奈良の町並みは、歴史的風景を大切にしているので、高層ビルは建っていません。

東大寺周辺で、唯一周りを見渡せられる展望台があるとすれば、それは、奈良県庁の屋上です。

奈良県庁に入ってエレベーターで屋上に行くと、四方を見渡す事が出来ました。

若草山や、東大寺、興福寺などが遠くに見えます。

奈良県庁の屋上から、東大寺周辺の建物を観た後は、これから歩いて東大寺に向かいます。

奈良は、落ち着いた町です。

小学校や中学校で、歴史や美術史で学んだ著名なお寺があちらこちらに現れてくると、これがあのお寺!あそこがあのお寺!と、驚きが続きます。

重要文化財や、国宝がそこらかしこにあって、あまりに重要文化財が多いので、古美術が好きな私には、宝箱の中を歩いているような、興奮状態になってきます。

きょろきょろ立ち止まっていると、グループに遅れてしまうので、皆さんとはぐれないように、東大寺に向かって進みます。

2016年5月19日(木)


東大寺の大仏様は、一般庶民は、遠くから、窓から見えるお顔だけを拝んでいました。 奈良県大人の修学旅行(9) 社長ブログ神戸/東大寺/

東大寺に向かう途中、奈良県庁の向かいに、奈良県知事の公舎がありました。

公舎の周りには長い土塀が続き、その周りには、5月の熱い日差しを浴びて、花が咲いています。

東大寺は、子供の修学旅行で来ていますが、大人の修学旅行となると、子供の時より見る物、感じる事が違ってきます。

東大寺と言えば、大仏殿です。

大仏殿に向かうまでに、東大寺の敷地の中にも、重要文化財が沢山ありました。

東大寺に入ると手前に池があり、池には最近作られた船が浮かんでいます。

この船は、東アジアの国々の文化交流の象徴だそうです。

「私たちはこの水域で共に一つの船に乗って、もう一度帆走出来るだろうか」というメッセージが込められているそうです。

ボランティアガイドさんがついて、説明してくれました。

門の向こうには、東大寺の大仏殿が見えます。

あの大仏殿の真ん中部分に大きな扉が作られていて、その扉を開けると、丁度大仏様のお顔が見えるようになっていたそうです。

昔は一般庶民は、大仏殿に入れません。

ここから大仏様のお顔を拝んでいたそうです。

中門の両脇には、毘沙門天の像がありました。

毘沙門天の足下を見れば、毘沙門天を乗せている、地天女のお顔と、邪気だけが見えます。

向かい持国天も、足下に、邪気を押さえつけています。

 

子供の頃の修学旅行で、ここまで観たかどうか、覚えていません。

今でも、ボランティアガイドさんが、多くの事をすらすらと説明してくれて、それを聞いても、全てを記憶できているとは言えません。

こうなると、今の時代では、インターネットを利用して、東大寺の説明を読んだ方が、復習になります。

東大寺の大仏殿に入るには、拝観料が1500円です。

後から後から、1500円が押し寄せてくるようで、受付のキャッシュボックスには、どんどん現金がたまっていっています。

2016年5月19日(木)


租庸調雑徭の税制では、お米や、特産物をおさめるだけでなく、力仕事も賦課されています。 奈良県大人の修学旅行(10) 社長ブログ奈良/東大寺/蘭奢待(らんじゃたい)

蘭奢待(らんじゃたい)という、香木があります。

素晴らしい香りがする香木です。

この字の中には、東・大・寺という文字が含まれています。

蘭奢待(らんじゃたい)は、奈良正倉院に納められている御物です。

この蘭奢待を切り取って、お香として使った人が何人かいます。

調査では、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇の6名です。

特に有名なのは、力に任せて蘭奢待を提出させた、織田信長です。

東大寺の大仏殿に向かう参道で、蘭奢待の事を思い出しました。

香木の中に東大寺の文字が入っているのですから、貴重な香木です。

木陰によって、ボランティアガイドさんの説明を聞いています。

東大寺は、これまで2度火災に遭っています。

一回目は、平清盛の命による、南都焼討(1180年)です。

二回目は、松永久秀の東大寺攻め(1567年)です。

再建の度に全国から巨木が集められましたが、段々と巨木も底をつき、大仏殿を支える支柱は集まりにくくなっています。

その為、何本の木を重ねて使う、現代でいう合成材を使った方法も考えられています。

大仏殿じたいは、その規模も小さくなっています。

現在の大仏殿は三代目ですが、昔の大仏殿に比べるとかなり小さくなっています。

大仏殿の前に、国宝の燈籠が立っています。

この燈籠は、美術の教科書で見た事がある、すぐれた彫刻が施されています。

近くまで来ると、大仏様のお顔だけを、遠くの庶民に見せるための、窓が見えてきました。

あの窓を開けると、大仏様のお顔の高さになっていて、大仏様が窓越しに見えるように設計されています。

大勢の参拝客の後について、石段を上り、大仏殿の中に入ってきました。

大仏殿の中は、外に比べると、明かりが制限されて、暗い感じがします。

空気も少し冷たい感じです。

大仏殿が焼かれたとき、大仏様も影響を受けています。

高い温度で焼けたため、大仏様の素材である、銅ですら溶けたそうです。

しかし、全てが溶けたわけではありません。

分厚い部分の、胸より下は残っています。

再建には、残っていた台座や胸部部分に、それより上を継ぎ足したようです。

大仏様の台座のすぐ側には、集合材で作られた大きな柱が見えます。

集合材を重ねるために、鉄のリングで止めていました。

聖武天皇が東大寺大仏殿を建てた頃は、今のような機械重機はありません。

全国から巨木を集めたり、銅を溶かして鋳型に入れて大仏を形成していくことは、大仕事です。

つまり今で言う、国家プロジェクトです。

東京オリンピックを、国を挙げて支援するのと同じ事です。

副次的な効果は、公共事業的な経済の活性化です。

聖武天皇の時代の税制は、租庸調・雑徭(そようちょう・ぞうよう)です。

お金や、お米で納税が済めばいいのですが、力仕事を求められると、庶民は命令されたところにまでいって、働かされています。

奈良の大仏を作る時も、きっと長期間ふるさとを離れて、都まで大仏殿の工事に行かされていた事だと思います。

2016年5月19日(木)


鹿はどこに行けば、一番鹿せんべいを確実にもらえるのか?考えて、鹿せんべいのお店の隣を選んでいます。 奈良県大人の修学旅行(11) 社長ブログ奈良/東大寺/大仏の手/奈良の鹿/二月堂/三月堂

奧さんの手のひらで踊らされている暢気な旦那さんがいます。

そんな旦那さんの事を連想させるような、仏様の手首の模造が、展示されています。

元々この話は、孫悟空の話から出来ています。

孫悟空が金斗雲という早く飛ぶ雲に乗って、相当な距離を飛んだつもりが、実は、お釈迦様の手の平で、それ以上超えていなかったという話です。

小学生が、東大寺を支える柱の穴をくぐり抜けるシーンが見えました。

私もこの柱の穴を抜けた事があるような、かすかな記憶があります。

あのときは一本の柱だと思っていたら、今観ると集合材でした。

東大寺大仏殿を出て、次は二月堂へ向かう途中、大きな鐘楼がありました。

とっても大きな鐘です。

ここに、土産物を売るおじさんがいて、東大寺の記念品を販売していました。

この方に、「この大きな鐘は、どのようにして、鐘撞き堂につり上げたのでしょうか?」と尋ねると、なるほどと思える答えです。

つまり、鐘を土の台の上に作っておいて、後からお堂を建てて、お堂に鐘を接合すると、鐘の台を崩していったそうです。

次は、春を告げるお水取りで有名な、東大寺の二月堂と、園となりの三月堂へのお詣りです。

三月堂は、その後帆走修理をしたので、向かって右端の方は、後世に継ぎ足したことから、全体から観ると時代の違いが出ているそうです。

二月堂にあがります。

二月堂のお水取りに使うたいまつは竹と笹でつくっているそうですが、一本が70kgにも及ぶ重さで、これをかついでお堂からたいまつの火の粉を参拝客に降り注ぐお坊さんの役目は、かなりの力仕事だそうです。

東大寺界隈には、緑地があれば、鹿が集まっています。

鹿が集まる鹿銀座は、実は鹿せんべいを売るお店でした。

鹿にとってみると、鹿せんべいを貰うには、鹿せんべいを売る売店の側が一番効率が良い事が解っているようです。

これが池の鯉なら、鯉も鯉のエサを売るお店の側が、一番効率が良い事になりますが、鯉の場合と、鹿の場合は、上手くこの法則は当てはまりません。

2016年5月19日(木)