屋島といえば、源平の古戦場です。屋島の戦いです。

屋島には、山頂に、 「屋島寺」がありました。四国八十八ヶ所の八十四番の札所です。 四国 (5)

お盆なので、屋島のお寺にお詣りしてきます。

うどんを食べたあとは、娘の運転でドライブです。

屋島ドライブウェイを使って、屋島山上に行きます。屋島ドライブウェイ株式会社は、ここを運営している企業で、高松琴平電気鉄道株式会社の、完全子会社で、代表取締役社長は、真鍋康正さんです。

源平屋島合戦場の舞台になった地です。

須磨の浦で、ひよどり越えの逆落としと言われる、一ノ谷の奇襲で、敗れた平氏は、四国へ一旦逃れ、陣を立て直して、ここ、屋島で、再び源氏と相まみえることになります。

1185年2月に頼朝が義経に、屋島攻撃の命令を出しました。

義経は僅か5艘50騎で暴風雨をついて出航しました。通常3日の航路を6時間ほどで阿波国勝浦に到着したそうです。この戦いで、後世に残るのは、源義経の武勇と、もう一つは、義経が使っていた弓が、海に落ちて、その弓を拾う、「弓流し」の話です。

義経の弓は、弓の張り方が緩くて、平氏に弓を拾われて、その弓の張り方が緩いことを知られ、嘲笑されることを怖れ、波間に漂う弓を追う話です。

30騎の兵を率いた、在地武士の近藤親家が、味方についてからの義経ゆかりの讃岐路が、ありました。

大坂峠、引田、白鳥、丹生、長尾、鳥打、駒足、深谷、前田、そして屋島の対岸です。

屋島に布陣の平家が、現在手薄であるとの情報を得た義経は、攻める時だと判断し、強襲を決意したようです。内裏を捨てて、海上へ逃げた平家軍は、矢戦攻撃を仕掛け、海上で凄まじい戦闘が繰り広げられました。

最終的に、暴風のため、遅れてきた梶原景時が率いる、鎌倉の大軍が屋島に迫ってきたので、平家は長門国彦島へ撤退したと言われています。

「屋島寺」の看板がありました。

当寺は唐僧鑑真和上過海大師が開創の基を開きその弟子恵雲律師空鉢(くうはつ)と号した人が、初代の住職となったと伝えられています。

初めは律宗であったが、弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八ヶ所の八十四番の札所であります。松葉博雄は、奥さんと四国に来ると、通りがかった八十八カ所に、お詣りをしています。屋島寺で、また1つ、お詣りしたお寺が増えました。

本尊千手観音は、平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で、共に重要文化財に指定されています。

書院裏には名園雪の庭があります、鐘楼の釣鐘は、鎌倉時代の初め、貞応二年に鋳たものです。なお源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸で有名な蓑山(みのやま)明神の社もあります。

屋島寺宝物館です。こちらは入館料500円が必要です。

境内には、蝉の声が耳に残るほどの大きな鳴き声で響いてきます。

蓑山大明神です。

屋島本尊千手観音の御申狸として善行をつむため、四国狸の大将としてあがめられているそうです。

家庭円満、縁結び、水商売の神様で知られています。

こちらは、重要文化財、屋島寺本堂です。

「この堂は今から六百五十年余り前の鎌倉時代末頃に建てられたものですが、三百五十年程前に、竜厳(りゅうごん)上人が大修理をし、昭和三十二年二月から解体して二度目の大修理を加え二ヶ年を経て、昭和三十四年五月に復元工事を完成したものであります。」

と書いていました。

もう少しすると、松葉賢一兄の命日です。今年は、三回忌の年です。そこで、松葉博雄と奥さんは、松葉賢一兄の冥福を祈って、御大師様に冥福をお願いしました。

U君は、突然松葉博雄がまじめに手を合わせて、お祈りをしているのを見て、まだ意味も分からないので、不思議そうに見ています。

2014年8月14日(木)