弘前城は、桜の多いお城です。社長ブログ/神戸の社長/コンタクトレンズメーカーブログ/メニコン
弘前城は、来年から、改修工事が始まります。桜が終わると、弘前城は、改修工事が始まります。 青森・盛岡 (5)社長ブログ/神戸の社長/コンタクトレンズメーカーブログ/メニコン
弘前城で、沖縄の友人、片山正喜さんと、ご一緒する日です。
ねぷた祭りを楽しんで、しっかりお酒を飲んだので、昨夜は、ホテルに帰ると、バタンキューで寝てしまいました。 青森2日目の朝です。朝食は、ホテルで頂きます。
もし、希望通りに、飛行機の切符と、ホテルの予約がとれていたら、青森市に泊まる予定でした。ねぷた祭りの頃は、飛行機も、ホテルも、どこも予約がいっぱいで、この時期は、なかなか希望通りにはいきません。
ホテルハイパーヒルズ弘前をチェックアウトします。ホテルで、沖縄の友人、片山正喜さんと、お会いする約束が出来ています。片山正喜さんは、5月から沖縄を離れ、東北地方や、北海道地方を、90ccのバイクで移動中です。
片山正喜さんは、ちょうど今、弘前に滞在中なので、連絡を取り合って、短い時間ですが、ご一緒することが出来ました。
片山正喜さんと一緒に、弘前城の見学に行きます。駐車場のおじさんは、弘前城の真ん前に、広い駐車場を持っていて、これもご先祖様のお陰ですと、ここに駐車場がある経緯を、丁寧に教えてくれました。
駐車料金は時間制でなく、一回500円です。24時間停めてもいいそうです。
弘前城を観て、最初に感じたのは、桜の木が多いことです。これだけの桜並木なら、来年のさくらの頃には、ぜひ来てみたいなあと思いました。
弘前城は、弘前城本丸東面の石垣を修理するため、天守を約70m本丸の内側へと曳屋する工事を、平成27年に実施します。そのため、平成27年の春以降は、天守閣が現在の位置から見られなくなるそうです。
青森県護国神社に来ました。「ここは平和の杜です」という説明が書かれていました。
『このお社は 青森縣護国神社といいます。
青森縣護国神社は、津軽藩主津軽承昭公の思し召しにより、箱館戦争の戦没者慰霊のため、明治3年に創建され、明治43年3月に弘前招魂神社として現在地に移築、昭和11年8月青森縣護国神社となり、昭和14年4月、一府県一社を原則とした内務大臣指定護国神社となったものです。
この神社には、幕末・明治維新以来、日清戦争・日露戦争・大東亜戦争など多くの戦いで、日本の平和と美しい山河や愛する家族を護るために亡くなられた、青森県出身二万九千百七十一柱の方々の御霊「英霊」が神様としてお祀りされています。
いま、こうして私たちが平和で豊かに暮らしていられるのは、国の危機に際して尊い命を捧げられた「英霊」のおかげであることを、決して忘れてはなりません。
青森縣護国神社にお参りし、英霊に感謝の気持ちを伝えましょう。
青森縣護国神社』
実っても、サイズの小さい、姫りんごの実がついています。
賀田御門跡の説明がありました。
『築城当初は北門が城の表玄関で、ここにあった賀田門は、三の丸の北門として旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。
門の内外は、直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて、堅固な備えを見せている。』
弘前城は、1603年から、弘前藩主 津軽為信公が築城したお城です。全国で12ある天守のうち、最も北に位置する現存天守です。
津軽藩は、現在の北海道である、蝦夷地方を開拓するために、幕府から、あれやらこれやら、幕命を受けていました。極寒の地に、北方領土を開拓するための命令でした。それが、津軽藩士殉難事件です。
弘前城の中には、堀に水が引かれ、魚釣りをしている人もいました。一般的には、お城の堀で魚を釣るのは、禁止されている例が多いのですが、弘前では、皆さん自由に釣っています。
二の丸 辰巳櫓です。
これから、弘前城は、改修工事が予定されています。そのため、本丸には、保護シートがかけられ、観られなくなります。
桜の咲く春が終わると、本丸には、保護シートがかけられるそうです。
なかなか広いお城です。お堀とは別に、日本式庭園があり、池には鯉が泳いでいます。
ここにも、二宮金次郎の銅像がありました。
8月には、弘前城は青葉で溢れています。花も咲き、ミツバチも飛び、小鳥も鳴き交っています。
沖縄の友人の片山正喜さんと、まさか、弘前城でお会いすることになるとは、昨年は予想もしていませんでした。
片山正喜さんのフェイスブックに投稿するからといって、松葉博雄と奥さんの写真を、ここは弘前ですと、分かる場所として、弘前城の櫓を背にして、写真を撮りました。
弘前は、冬であれば、雪に覆われる街ですが、今の8月であれば、緑に溢れる、広い、落ち着いた街です。もっと、あちらこちらを、時間を掛けて訪ねてみたい、魅力的な街です。
2014年8月4日(月)