賀茂鶴の敷地には、本陣 お茶屋跡がありました。
賀茂鶴の本陣 お茶屋跡は、芸州広島藩浅野家が直轄直営していた宿場の跡です。 広島ツアー(4)
賀茂鶴の工場から出て、通路を歩いていると、京都で見るような、わびさびを感じる土塀の家がありました。入り口は、普段は使われていないのか、柵が設けられています。
これは、本陣、お茶屋跡です。つまり、芸州広島藩浅野家が直轄直営していた宿場の跡です。
ここに、かつては参勤交代の大名や幕府の要人の多くが宿泊していました。由緒正しい宿場跡です。
例えれば、この「本陣 お茶屋跡」は、数百年後の未来から見た場合、「帝国ホテル」になるでしょうか?
ぐるっと回って見ると、賀茂鶴酒造の敷地は、この辺りで一番広く感じました。こんな大きな酒造会社に生まれたお子様達は、この後の企業の存続、維持の責任は、さぞ大変なことだと思いました。
酒蔵通りの周辺は、大きなマンションが建ち並んでいます。高層階の部屋からは、この賀茂鶴の工場が丸見えのようです。
こんな所に、「四日市次郎丸村」の碑が、道の真ん中にぽんと立っています。現在の西条町は、明治23年(1890年)に、四日市次郎丸村から村名改称して現在の名前になりました。
「大正の浪漫かほる酒のまち」昔の建造物や景観を活かした町づくりをしているようです。
四日市次郎丸村の中に、入ってみました。小さなお店の集合体でした。しかし、定休日なのか、時間外なのか、夜になったら開くのか、全てのお店は、閉店していました。
マンホールの蓋にも、酒都 西條と、酒蔵通りの絵模様が描かれています。
賀茂鶴から離れて、別の酒蔵に行ってみます。西条鶴の、蔵の前にある井戸は、江戸天保井水で、江戸時代天保年間から現存する井戸です。
この江戸天保井水にも、水汲みの人が来て、ポリタンクを置いて、チョロチョロと流れ出る井戸水を、気長に、座り込んで、本を読みながら、満タンになるのを待っている人がいました。
蔵の屋根の下には、杉玉が見えます。あの杉玉は、高いところにあるので、目線を上に上げなければ気がつきません。
まだまだ、酒蔵通りは続きます。しかし、17時を回ると、人通りも絶え、蔵の入り口も閉まり、そろそろみんな帰る頃です。松葉博雄も、カラスが鳴くから帰ろうと、奥さんと一緒に、今夜の宿に向かいます。
2013年9月18日(水)