宍粟市山崎 山崎藩の陣屋が残っています。酒蔵には杉玉 「今年の新酒が出来ましたよ」

宍粟市山崎 今も 山崎藩陣屋が残っています。酒蔵には杉玉 「今年の新酒が出来ましたよ」と教えてくれています。宍粟市ツアー(3)

大名と呼ばれたかったら、

一万石以上の殿様になることです。

米一石は150㎏です。一万石は1,500トンです。

つまり、1,500トンのお米が採れる広さの田んぼを領地とする事です。

凄く良い天気です。

こんなお天気を秋晴れの小春日和というのでしょうか? 

正起の鮎料理を食べた後、

直ぐ側に流れる揖保川の辺に出ています。

中国山脈の水源から少しずつ集まって来た水が、

この先播磨灘に注ぐ川の流れが、ここから見えます。

正起では揖保川で釣ってきた鮎を買い受けて、

生簀に入れ生かしています。

この鮎は囮としても釣り人に売られています。

鮎の囮の価格は、1匹600円です。

網ですくって鮎を指で触ってみると、

鮎が育った揖保川の苔の香りが、

鮎の両脇に染みこんでいます。

鮎はとても繊細な心を持っているため、

人影を見ると狂ったようなパニック状態になります。

そのため、鮎を生かす生簀は上から蓋をして暗くし、

人影が見えないように配慮されています。

生簀には鮎とは別に、川の鮭と言われる、

鮎とは違った魚が生かされていました。

すくい上げて見ると、川魚とは思えないような大きな口で、

小さな歯並びがぎっしり揃っていて、

これで川の苔を食べるのかなぁと思います。

今日は平日だからか、

お客様はほとんどいません。

夏ならノンアルコールビールを飲んで

川床でしばらく川風に吹かれて

昼寝をするところですが、

横になってみると、

さすが10月では昼寝をするのに風が寒すぎました。

宍粟市の山﨑は交通の要所だったので、

ここには江戸時代に姫路藩の支店とも言える、

山﨑藩がありました。

幕末の頃は石高一万石なので、

陣屋が置かれていました。

今日は昔の山﨑藩の陣屋があった辺り、

古い町並みを見てきます。

そもそも山﨑藩の始まりは、

姫路藩 初代藩主 池田輝政の四男 輝澄 が

元和元年(1615年)3万8千石を与えられ

鹿沢(山崎)に陣屋を構え、

山﨑藩が姫路藩から独立、立藩したそうです。

調べてみると、

山﨑藩は殿様がしょっちゅう変わっています。

変わる度に石高が小さくなり、

最大6万8千石で、1679年~1871年までは1万石で、

明治維新を迎えています。

山﨑町の旧民家を代表する建物は、

格子造りの白壁で、

瓦の屋根がずっしりと重たそうな酒屋さんと、その酒蔵です。

こんな景色はどこかで見たと考えついたのは、赤穂坂越です。

酒屋さんの玄関口に、

蜂の巣の様な丸いボール状の杉の玉が出ると、

これは新酒が出来ましたという合図です。

その名前は、杉玉もしくは酒林と呼ばれています。

徳川幕府が作った幕藩体制では、

幕府には300諸侯と言われる大名がいました。

大名と言われるには、

所領の石高が一万石以上であることが条件で、

一万石未満であれば大名ではありません。

大名になれば、自分の藩が持てて、お城か陣屋が持てます。

陣屋で思い出すのは、

織田信長の子孫で、織田家を幕末まで継承した織田有楽斎です。

この織田有楽斎の陣屋は、兵庫県丹波市の柏原にありました。

この日の夜は、旬彩蔵で買った野菜と、

A・COOPで買った妻鹿港 昼網の魚です。

アコウを煮るには、塩分控えめを心掛け、

砂糖・みりん・お酒を多くし、醤油を控えました。

海老も同じ様に、塩分控えめの味付けです。

アコウと一緒に炊いた炊き合わせのネギは、旬彩蔵で買ったネギです。

今日の近隣ツアーで行った山﨑町には、

直ぐ近くに腰痛地蔵尊が祀られています。

お参りするときは新しい藁草履を履いて、

草履の腰の部分を踏み、

使った草履は誰も履かないように

鼻緒を切っておくのだそうです。

お参りして腰痛が治ったという人が

沢山いるということで、

遠方からも多くの人がお参りされるようなので、

次の機会に行ってみたいです。

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2012年10月25日(木)