阪神淡路大震災 当日 現在の神戸三宮からは 想像もつかない状態でした【社長経営学】<特別編③>
投稿No:10111
30年目の阪神淡路大震災 当日の神戸三宮の様子はこうでした 【社長経営学】<特別編③>
廃墟のショッピングモール
1995年1月15日、震災当日、朝9時頃、
奥さんと一緒に車で三宮に向かいました。
発生間もなくだったためか、
なんの交通規制も受けないで
三宮にはスムーズに到着しました。
人影も少なく、静かでした。
さんプラザビルに入ってみると
明かりはすべて消えていて、
洞窟のような不気味さを感じました。
吹きぬけのあるホールの、
動きの止まったエスカレーターを歩いて上り、
3階へ行きつく途中は天井から落
下したガラスの破片が飛び散っていました。
鍵を開けて
わが社の店内へ入ってみると、
光学機器は横転していましたが、
幸いなことにコンタクトの在庫は
ロッカーに入れて鍵を掛けていたために、
散乱することもなく無事でした。
在庫が無事ならいつでも販売できると、
少し安心しました。
誰もいない暗いビルの中を、自然の光を頼りに、
階段を下りて地下の保安室へ行ってみました。
宿直の保安員の方は、
まだ被害の状況を把握できていませんでした。
さんプラザビルを外から見れば、
それほど被害はないように見えましたが、
後からわかったことは、
ビルの6階部分の支柱が折れて、
ダルマ落としのように階層が重なり合っていました。
さんプラザビルの北東の角にある
太平閣の側の公衆電話に、電話をかけに行きました。
当時は携帯電話がなく、公衆電話が頼りでした。
どの公衆電話にも人の列ができて、
なかなか順番が回ってこないので諦めました。
三宮駅前の東急ホテルに
避難所を確保しようと行ってみましたが、
ロビーにも毛布に身をくるんだ避難の人々が溢れ、
とても利用することは難しいことがわかりました。
ホテルには1泊のつもりで
昨夜から滞在している旅行者がいました。
何も持ち出せないまま、毛布にくるまって
寒さに震え、恐怖に耐えているようです。
アーケードは落下
センター街に取って返すとアーケードは
商店街に落下し、鉄骨がむき出しのまま
道を塞いでいました。
入り口角の野村証券ビルは普段見えない部分
がむき出しになり、
ぐちゃぐちゃになっていました。
すべてのお店のシャッターは閉じたままで、
歩く人影もまばらです。
倒壊寸前柏井ビル
状況がわかるにつれて、
安全な場所に避難をする必要を感じました。
三宮から新神戸へ向かう大通りに面して、
取引先のメニコン神戸営業所が
入っている柏井ビルがあります。
柏井ビルは10階建てですが、
見た目にわかるほど
道路側に傾きかけていました。
私が通過した時は、傾いて立っていましたが、
その後すぐに道路側に倒れ、
その向かいのビルを破壊し、
道路を塞いでしまいました。
交通の支障となっていたので緊急措置として
車が通れるようにとくり抜かれました。
中央区にあった兵庫県眼科医師会の
会長宅をお見舞いに訪れて、
今後の対策や指示をいただこうと思いました。
ご不在のようで、家の中からは
応答が得られずお会いすることは諦めました。
そうこうするうちに、市街地にはだんだんと
避難の人が増えてきて、
災害現場の雰囲気になってきたので、
一旦自宅に戻ることにしました。