阪神淡路大震災は 2025年1月17日で 30年の節目の年を迎えます【社長経営学】<特別編①>
投稿No:10105
阪神淡路大震災は 2025年1月17日で 30年の節目の年を迎えます【社長経営学】<特別編①>
2025年1月17日に、
阪神淡路大震災から
30年という大きな節目を迎えます。
30年という月日は、たくさんのことを
風化させてしまう力を持っています。
しかし、阪神淡路大震災で私が経験したことは、
ただの過去の出来事ではなく、
未来に生かすべき教訓でもあります。
神戸三宮で53年間、店を営んできた私にとって、
震災は忘れることのできない人生の一部です。
復興の中で人々が見せてくれた
優しさや助け合いの精神、
そして前を向く力は、
今の私を支えてくれています。
あの日、
神戸の街は一瞬で変わり果て、
日常を取り戻すまでに
多くの時間と努力が必要でした。
しかし、復興を支えたのは、
人と人の繋がり、そして希望でした。
震災から30年を迎える今、
過去の出来事を思い起こし、
それを未来へ伝えることの
大切さを強く感じています。
震災を乗り越えた神戸の街、
そして私たちの経験を言葉に残し、
次の世代へ語り継ぐこが、
震災を共に乗り越えた者の使命だと思います。
あれから30年。
復興した街の姿を見ていると、
あの時の苦しさや涙も、
少しずつ過去のものになりつつあります。
ですが決して、
忘れてはいけないこともたくさんあります。
2025年1月17日に向けて、
現在シリーズで投稿している「社長経営学」より、
震災の部分を抜粋して、
投稿して行こうと思います。
この記録を通じて、
過去の出来事から何かを感じ、
未来に繋がるヒントを
見つけていただければ幸いです。
阪神淡路大震災
激動の17日間
1995年1月17日未明に起きた
阪神・淡路大震災の壊滅的な恐怖は、
体験してみなければわかりません。
多くの犠牲者が出たなかで、
家族は全員無事だった幸運に感謝しました。
人生は思うようにはいかないものです。
繁盛していたお店は倒壊して、
商売は止まりました。
交通機関は麻痺状態、
社員の安否もわからず、たとえ元気でいても
出勤はできませんでした。
今日からは、昨日とは違ったことを
しなければならないのだと考えました。
大震災に対して
「おもしろい」とは思えませんが、
これまで築いてきた
有形・無形の資産に対しては、
どこまで復興できるのだろうかと、
闘志のような緊張感と、
私がなんとかしなければと
思う責任感が湧いてきました。
後日への伝承として、
記録に残すことも大切です。
こう考えて、少し長くなりますが、
震災当日1月17日
神戸三宮さんプラザビルの店舗崩壊から、
翌月の2月2日の仮設店舗起ち上げまでの
17日間を書きました。
■1日目■
1月17日、午前5時46分、
東灘区岡本の自宅で
布団にくるまっていた身体が、
いきなり激しく持ち上げられ、
そして叩きつけられました。
上下の揺れと衝撃で目は覚めたものの、
何が起きているかわかりませんでした。
つかまる物も無く、
布団の中から立ち上がることもできず、
ただひたすら、早く揺れが
収まることを願いました。
振動装置を使って人工的な振動を
起こしているようにすら感じました。
後からわかったのは、激震の時間は
わずか60秒にも満たない一瞬だった、
ということです。
恐怖の時間は一瞬ではなく、
とても長く感じました。
布団の中では早く収まってほしいと
思う気持ちでいっぱいでした。
激しい揺れが収まった時に、
やっと立ち上がることができました。
幸い、私の寝ていた布団の周りには
倒壊物が無く、身体には損傷が
無いことがわかりました。
起き上がって奥さんの安否を確認するために、
大声で「大丈夫か!」と叫び続けました。
2階で寝ていた奥さんにも
幸い損傷が無いことがわかり、ホッとしました。
1階の居間を見れば、南東の壁に向かって
据え置いていたピアノは床を横断し、
北西の壁際まで移動していました。
ピアノの脚にキャスターが付いていたので、
倒れないで済んだようです。
海水魚を飼っていた水槽は
床に倒れ、辺り一面海水がこぼれていました。
部屋の中はまるで略奪を受けたように
滅茶苦茶に散乱し、食器やガラスの破損のため
素足で歩くことは危険でした。
「火の用心」が頭をよぎり、
すぐにガスの元栓を閉め、
奥さんと共に外に避難することにしました。
ところが、玄関のドアが開きません。
力いっぱい引っ張り、壊れることを覚悟で
こじ開けて外に出ることができました。
1月の早朝は薄暗く、
家の辺りはまだ薄靄の中に
うっすらと陽が昇り始め、
夢の中にいるような思いでした。
続く▶▶▶