12月8日の明けの明星を見て、ニレンゼン河の菩提樹の樹の下で悟りを開い たブッダは、永遠の真理を会得しました。 あまりにも難しい悟りの理論なので、これを一人で胸に秘めているつもりで したが、思い直して、これまで付いてきた五人の従者に話してみることにしました。初転法輪の地 サルナート(鹿野苑) インド巡礼記(19)

ブッタが初めて説教したという「初転法輪」の地、サルナートへ向かいます。12月8日の明けの明星を見て、ニレンゼン河の菩提樹の樹の下で悟りを開いたブッダは、永遠の真理を会得しました。あまりにも難しい悟りの理論なので、これを一人で胸に秘めているつもりでしたが、思い直して、これまで付いてきた五人の従者に話してみることにしました。【第19話】

12月8日の明けの明星を見て、

ニレンゼン河の菩提樹の樹の下で悟りを開いた

ブッダは、永遠の真理を会得しました。

あまりにも難しい悟りの理論なので、

これを一人で胸に秘めているつもりで

したが、思い直して、

これまで付いてきた五人の従者に話してみることにしました。

 

インド巡礼記

 

そのために、ベナレス(ヴァーラーナシー)に行き、

かつての修行仲間であ

る五人の従者にサルナート(鹿野苑)で会いました。

この時に話したブッダの悟りの教えが、

初めての法話で、

法話を車輪のように回すことを「法輪」といいます。

この法輪の最初の一回転目が、「初転法輪」といいます。

そこで、このサルナートが

仏教の聖地の一つとなったのです。

インド巡礼記

昼からは、ブッタが初めて説教したという

「初転法輪」の地、サルナートへ向かいます。

2500年前に仏教が興り、

アショカ王が各地で守護した仏教も、

回教徒がこの地を占領すると、

仏教遺跡を破壊したのですっかり衰退しました。

根本香堂は、ブッダが最初の説法を説いた所に、

後年建てられた大きなお堂です。

小高い丘の上にあり、

遠くからでも見えるような、

高い円形の塔です。

そこへ行ってみると、レンガの遺跡があり、

この地を紀元700年ごろ訪れた

唐の玄蔵三蔵法師の記録では、

もうこのあたりはやや荒れた土地に

なっていたということで、

それでも記録に残った塔は

さらに破壊され、今は残っていません。

ブッダの教えの一つに、

諸々の事象は移りゆくものであると教えています。

全ての形ありものは、壊れるということです。

ブッダもいつか仏教が消えていくことを、

一つの理として見ていました。

インド巡礼記

ブッダが入滅した後、2500年後には、

末法の時代は来るとも言われていました。

ヨーロッパの学者達は、

一時期仏教は伝説上の宗教で、

その存在を疑問視する意見もありました。

しかし、近年発掘が進み、

記述に基づいたとおりの遺跡や

埋蔵品が発見されるに及び、

仏教は確かにこの地に栄え、

ブッダは存在したことが

信じられるようになりました。

サルナートの広い公園の中に、

初めてブッダが従者であった

五人の弟子に説法したといわれる、

菩提樹の樹が二つ並んで茂っています。

インド巡礼記

 

この樹の根元に行って、土を採取しました。

まるで、甲子園球場に出場した

高校球児のような感慨を胸に抱いています。

急いで戻り、このような貴重な巡礼地を

すぐに去っていくのは

なんだかもったいない気がしました。

このあたり一帯は芝生がきれいで、

公園のように整備されています。

人出も多く、ヨーロッパの人の

グループやチベット系の人達、

あるいは朝鮮系の人達、

あるいは日本人観光客の人たちと

多くのグループとすれ違いました。

インド巡礼記

サルナートの博物館に行きます。

ここには、多くの国の人たちが

巡礼に来ていて、とても国際色を感じます。

この博物館は、サルナートで

発掘された出土品を展示しています。

この中には、世界的な高いレベルの仏教史上貴重な、

遺品、美術品、資料などが展示されています。

もし、サルナートに巡礼に行く場合は、

絶対に見学するべきです。

休館日があるので、

事前に調べて、休館日を外してください。

靴を脱いで、大理石のお堂に入ると、

正面にブッタが安座しています。

両側の壁には、ブッタの誕生から出家し、

修行、成道、初転法輪、そして入滅までの

絵が分かりやすく描いてあります。

この絵を写真で写すには2ルピー必要です。

インド巡礼記

以下の写真は、仏教史上とても貴重な像です。

仏教が成立した初期の頃は、

ブッダの礼拝は直接的な仏像を

礼拝する方法を採っていませんでした。

仏像の代わりに、足跡の形、

法輪を象徴する車輪などを礼拝して、

ブッダの間接的な礼拝をしていました。
インド巡礼記

5世紀に入ると、

ブッダの像は洗練された

美しい造形となって出土されています。

インド巡礼記

アショーカ王が仏教を広めるために、

各地に建てた獅子柱頭です。

インド巡礼記

紀元前3世紀の頃の作品です。

高さは2mあります。

ここにも、法輪が車輪の形で表され、

その上にインドライオンが乗っています。

ライオンは王の権威を表すので、

アショーカ王が仏教を自国の国教として

宣言していることがわかります。

ブッダの苦しい修行による会得された

真理の教えを「ダルマ」と言います。

このダルマを伝えていくために、

だんだんと美しい仏像が作られて、

各地に伝えられていきます。

そして日本にも百済より538年に伝わってきました。

このときも、ダルマと一緒に

仏像が伝わってきています。

インド巡礼記

ブッダは、35歳で悟りを開き、

法を広め、布教活動を行い、

80歳で入滅しました。

ブッダは、荼毘に付されその後、

遺骨の分配がありました。

しかし、さっそくブッダの

遺骨分配をめぐって争いが生じ、

調停の末、8つの地方の人々に分けられました。

インド巡礼記

後代、アショーカ王がさらに

84000に再分配したとも言われています。

感動的なブッダの像との出会いで、

しばらく松葉博雄はブッダの世界に浸っていました。

インド巡礼記

しかし、限りある時間の中で、

集合予定時間が迫り、

またいつの日かこのブッダの像や

出土品を参拝したいと思いつつ、

博物館の外に出ました。

外に出ると、アーナンダ氏がなにやら

ニヤニヤしながら出口に座って待っていました。

アーナンダ氏は仏教徒ではないので、

私が感動している姿がおかしかったようです。

インド巡礼記

とても充実した時間でした。

昔、玄奘三蔵法師はこのブッダの教えを直接収集するために、

国禁を犯してまではるばる山脈を越え、砂漠を渡り、

このインドの聖地に来たそうです。

その苦難の物語は、中国では「西遊記」となり、

三蔵法師の苦難と仏教を求める熱意が京劇にも演じられています。

このような苦労もしないで

、楽々とこの聖地に巡礼できたことを、深く感謝しました。

【参考文献】

「天竺への旅 第1集ブッダの生涯をたずねて」、編著:奈良康明、1983年、学研

「ブッダの教え 仏教2500年の流れ」、山折哲雄、2001年、集英社

「仏教入門」、ひろさちや、1993年、池田書店

まとめ

真理を求めて インドに、インドに真理を求めて、インド巡礼に行きたい、

こう思ったのも、家庭を築き、仕事に精を出し、人生も順調に歩んでる時、

ふと心の中に、「これで良いのかな?何か大事な事を忘れていないかな?成

る程と腑に落ちる様な真理を理解できてるのかな?」このように、ふとした

疑問がどんどん膨らんできたからです。インド巡礼は、真理を求める巡礼の

旅になるはずです。