蚕(かいこ)で町おこし カイコの飼育 淡路景観園芸園芸学校 受講記(66)マスターコース⑪ 虫

投稿No:9283

蚕で町おこし 養父市 カイコの飼育 淡路景観園芸園芸学校 受講記(66)マスターコース⑪ 

蚕(かいこ)で町おこし

淡路景観園芸園芸学校 マスターコース 

今日の講義のテーマは、

「動植物を活用した地域の町おこし」でしたが、

興味が湧いたのは、カイコの養蚕の話です。

カイコに焦点を当てて蚕についてまとめました。

蚕の飼育

下の写真は、卵(抜け殻)のサンプルです。

ふ化後すぐの稚蚕は1齢(~4日)です。

その後、2齢(3.5日)→

3齢(4.5日)→

4齢(6日)→

5齢(9日)と育っていきます。

そして繭(まゆ)を作り始めます。

蚕は桑の葉を食べて成長します。

桑の葉以外は食べません。

従って、養蚕農家は桑の木を育てます。

蚕は柔らかい部分の桑の葉を好んで食べます。

順調に育つと、

3日目で、体長は6~7mm程度になっています。

新しい桑の葉をモリモリ食べて成長していきます。

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そして、カイコらしく体全体が白っぽくなってきます。

繭(まゆ)づくり

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カイコが5齢になったら、まゆ作りの準備をします。

カイコがまゆを作る場所をマブシ(蔟)といいます。

えさを食べなくなり、

飼育箱の壁に糸を吐くようになったカイコを

マブシに移します。

厚紙で作ったわくの中にカイコが入ってまゆを作ります。

カイコの数のわくを作ります。

まゆができあがるとその中でサナギに変わり、

その後ガになります。

資料出典 小山市HP  大日本大日本蚕糸会

写真出典 Wikipedia

カイコを育てて繭(まゆ)をとることを養蚕(ようさん)といいます。

養蚕(ようさん)は、

中国の黄河や揚子江流域で野生のクワコを

家畜化したのがはじまりといわれます。

今から5,000~6,000年も前のことです。

はじめは中国の宮廷内だけで秘密に行われていた養蚕も、

紀元前1000年くらいになると、

一般の農家に養蚕をさせるようになりました。

でも、できた絹は、宮廷ですべて取り上げてしまいました。

紀元前200年くらい、

漢の時代になると西域との貿易が始まり、

異民族を支配するためのほうびとして使われました。

こうして、絹の魅力は、中近東へ、

そして、ローマまで広まっていきました。

やがて、この交易ルートが

「シルクロード」(絹の道)といわれ、

東西文化の交流に多くの役割をはたしました。

日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、

稲作といっしょに中国からの移住者

(日本人の祖先のひとつ)が、

伝えたといわれています。

さらに195年には百済から蚕種が、

283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。

奈良時代には、

東北・北海道を除き全国的に養蚕が行われ、

産地ごとに等級が決められていて、

税として朝廷に集められました。

平安時代になると

服装も日本風に変わり、

日本独自の紋様の絹織物が作られるようになりました。

鎌倉時代になると

質素を好む武士が中心となり、

京都の織物は衰退しましたが、

地方の産業振興が行われ、

絹織物の技術が地方にも広がっていきました。

室町・桃山時代になると、

中国から糸に撚りをかける

撚糸(ねんし)の技術が伝わり、

西陣織が生まれました。

京ちりめん、丹後ちりめんなどが

このころから作られるようになりました。

能装束や小袖飾りなど実用性を離れ

権力を誇示するためのものが多くなりました。

江戸時代になると、

武士以外の人びとの絹着用は禁止されましたが、

能装束や小袖などの高級織物は保護され、

中国から生糸が輸入され、

その支払いには国産の銅があてられました。

輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどでした。

こうして幕府は、

中国からの生糸の輸入を減らすため

養蚕を奨励しました。

各藩でも財政の建て直しや下級武士の救済のために

西陣から技術を学び、金沢の友禅染め、

山形の米沢織、茨城の結城紬、

仙台の仙台平など独自の織物を生み出しました。

江戸時代末から勧められた製糸の機械化は、

明治時代になると

さらに進み、殖産興業(しょくさんこうぎょう)方針により、

1872年には群馬県の富岡に

官営富岡製糸場がフランス人の設計で建設され、

フランス式の最新機械が導入され、

フランス人指導者のもとで多くの技術者たちが育ち、

各地の製糸技術の向上に貢献しました。

また、関東・中部地方を中心に近代的な

製糸工場が建設されました。

同時に繭を作る養蚕農家も全国に広がり、

養蚕業の最盛期1930年代には、

農家の40%で養蚕が行われていました。

明治から昭和初期にかけて生糸は

日本からの輸出70%~40%を占めていました。

1900年ころからは中国を抜いて

世界一の生糸輸出国になりました。

最大の輸出先はアメリカでした。

つまり、生糸が稼いだお金で

近代化のための機械などを買っていました。

成長を続けた養蚕業にも転機がきました。

1929年アメリカから広がった

世界恐慌により生糸が売れなくなりました。

1940年には

生糸の最大の輸出先のアメリカで、

生糸に代わってナイロンが使われるようになりました。

その後、低価格で大量生産ができるさまざまな

化学せんいが開発されるようになりました。

戦後の復興期を経て、

昭和30年~40年頃に再び養蚕はピークを迎えます。

出典 養蚕の歴史 大日本蚕糸会

カイコを飼育して環境学習

環境学習にかいこが良く用いられています。

①生活との結びつき・・・・

桑の実・生糸・織物・染料・化粧品

②子供に害がない・・・・

蚕は子供に伝染する病気を持たない清潔な昆虫です。

逆に人間からカイコが感染することがあるため、

カイコに触れるときは手洗いが必要です。

③成長速度が適度・・・・

約1カ月で卵から繭になるので

観察にはちょうど良い長さです。

④動きが遅い・・・・

掌でゆっくり観察できる。

⑤五感を刺激する・・・・

繭を茹でる際に臭いがする。

養父市 蔵垣かいこの里

蔵垣かいこの里公園には、

上垣守国(もりくに)養蚕記念館、

かいこの里交流施設、かいこ飼育所があります。

但馬の養蚕と上垣守国さんを顕彰する公園です。

上垣守国養蚕記念館の建物は、

この地方で多く作られている木造瓦葺、

3階建の養蚕農家の民家です。

1770年 18歳から陸奥国伊達郡福島などに往来し、

先進地の蚕種を持ち帰り、

但馬・丹後に広めて蚕種改良に尽力した人物です。

そして享和3年(1803)、

48歳の時に養蚕秘録という

養蚕の技術書を出版しました。

そして文化3年(1806)8月に

56歳の若さで亡くなりました。

養蚕記念館では、上垣守国の業績をたたえ、

養蚕秘録や上垣守国が使用した煙草入れ、

筆の入った矢立などを展示しています。。

かいこの里では、毎年5月20日頃から養蚕をはじめ、

6月15日頃にはすがくようになり、上ぞくさせています。

そして一週間ほどで繭を取ります。

また但馬内で希望する小学校には育てた蚕を教材として寄贈して、

学校で2週間ほど飼って繭にします。

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2022年2月27日(日)