阪神淡路大震災 復興 神戸三宮センター街 さんプラザ地区の被害(№1)
阪神淡路大震災 神戸三宮地区 さんプラザの被害(No1)
阪神淡路大震災直後 三宮さんプラザの被害
センター街を覆っていたアーケドは墜ちて
歩道からは空が見えていました。
センター街から青空を見たのはこれが初めてでした。
アーケドがなくなると、
両側のビルの壊れた状態がセンター街の歩道から見えました。
さんプラザビル、住友銀行、野村証券などのビルにヒビが入り、
危険な状態が晒されていました。
それでも、人はどこからとなく集まってきていました。
神戸っ子はセンター街が好きなのです。
神戸の震災復興は、街の中心の、
ここセンター街から始まったのです。
1995年1月17日午前5時46分地震発生
阪神淡路大震災は、
1995年1月17日午前5時46分ごろに起きました。
阪神淡路大震災から24年が経過しようとしています。
震災当時起きた事、復興に関わった事、
多くの皆様方からご支援をいただいた事などの
記録を残していきたいと思います。
東灘区岡本で罹災
阪神淡路大震災当時、
三宮のさんプラザビルでは職場が罹災し、
東灘区岡本では自宅が罹災しました。
木造家屋が多い地区でしたので、
多くの家屋が倒壊しました。
家から逃げ出した人たちが
道路に毛布を被ってうずくまっていました。
震災体験と感謝を記録に残す
この阪神淡路大震災の罹災体験を基に、
阪神淡路大震災の当時の様々な出来事や、
復旧に携わり、地域の皆様、従業員、顧客、
神戸市を始めとする公共団体、取引先、
眼科医師会、などの支援を得て、
全壊状態の事業所から復興に向けて
立ち上がった時の事を記録していきたいと思います。
阪神淡路大震災当時、
復興にお力添えをいただきました皆様方に、
感謝の気持ちと、ご協力のお礼を
ここに改めて申し上げたいと思っています。
さんプラザビルの倒壊
関東大震災以来の未曾有の大震災を経験し、
復興を行う事はこれまでの
マーケティング研究の事例にもありませんでした。
マーケティング研究の基本に「主体と環境の適応」
をどのように説明するかというテーマがあります。
阪神淡路大震災が突然起きた阪神地区の家屋の倒壊と
6,000人以上の犠牲者、交通網の混乱、大規模火災の発生、
さらに、避難生活から始まる市民生活を記録しました。
ライフラインの復旧
突然起きた地獄のような大震災の中で、
少しずつ救援物資が身近な人から、
あるいは、見知らぬ全国の皆様方から、
更に、言葉も交わす事の無かった
世界中の方々から集まりました。
阪神淡路大震災では、救援物資だけではなくて、
人の心の温かさを伝えるボランティア活動の皆様が、
テント生活者の中に、避難所の体育館の中に、
あるいは復旧活動の現場の中に入って、
私達を助けていただきました。
今から思えば、あの時起きた阪神淡路大震災の事は、
わずか1分にも満たない瞬間のような地殻の変動でした。
そこから起きた事は一人一人の市民、
一つ一つの企業にとってみれば、
劇的な環境の変化に対して、
主体としてどのように適応していくか、まさに明日を賭けて、
人生を賭けて、命を賭けての闘いでもありました。
阪神淡路大震災の復興のマーケティング研究は、
現在では、復興がほぼ出来ている状態だからこそ、
考察を行なう事が可能となりました。
震災当時の「今日どのように生きるか」、
「明日の糧はどのように獲得できるのか」、
という一日、一日を生き抜いて行く事が精一杯の時には、
マーケティング研究の意識すらありませんでした。
しかし、マーケティングは「今日の販売」から、
「明日の売れる仕組みを作る事」と言えます。
一日一日の生きる事から、
「生き抜いて行く仕組みを作る事」を
震災復興のマーケティングでは行なっていた事を
検証してみたいと思います。
企業は存続する事が第一の目的であり、
それを可能にするのは顧客の創造である。
従って、阪神淡路大震災においても
まず企業が存続できるように行動を行ない、
その為には一瞬にして失った経営資源を立て直し、
再び顧客の創造、維持、育成へと立ち上がった事が、
そこからの復興を可能にした事と言えます。
松葉博雄
2019年1月更新