秋分の日 2021年9月23日は彼岸の中日 彼岸とは、煩悩や迷いのある世界から悟りの開けた世界へ至ること、 至るために行う修行のことを指します。

投稿No:9123

お彼岸にブッダを想う 彼岸とは、煩悩や迷いのある世界から悟りの開けた世界へ至ること、 至るために行う修行のことを指します。

お彼岸の中日

お彼岸の真ん中の日の事で、

春分の日と秋分の日がお中日です。

春分の日と秋分の日は1年のうちで

昼の時間と夜の時間が同じ日です。

太陽も真東から昇り真西に沈み、

西と東が一直線になるので

あの世とこの世が繋がりやすくなると考えられ、

その日にお墓参りをしてご先祖様を供養します。

秋分の日が「祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ」

という意味を持っています。

「お彼岸」とは、

「到彼岸(とうひがん)」という意味で、

煩悩や迷いのある世界から悟りの開けた世界へ至ること

至るために行う修行のことを指します。

仏教では元来、煩悩に満ちあふれる

この現世の世界を「此岸(しがん)」と呼びます。

それに対して、悟りの境地である涅槃(ねはん)、

あの世の世界を「彼岸(ひがん)」と呼びました。

お彼岸は仏教の教えの一つです。

仏教は、ブッダの教えです。

ブッダの教えをおさらいしました。

ブッダの生涯 おさらい

インド巡礼記

私の知識のおさらいをしておきます。

仏教の始祖であるブッダを理解することになります。

どの宗派、どの教団でも、一応仏教であれば、

ブッダが始祖であることは認めています。

ブッダが説いた初期の原始仏教から何百年、

あるいは二千年もの歳月を経て、

どんどん原始仏教から考えが発展していく中で、

もともとのブッダの思想さえも

なんとなく消えていきそうに見えます。

そこで、おさらいをしてみたいと思います。

仏教というのは ブッダ(仏陀)の教えのことです。

お釈迦さまは、今から約2500年ほど前に実在した方です。

ゴータマ・シッダールタが本名です。

ブッダ(Buddaha)とは「目覚める」

という動詞の過去分詞形で、

広く「目覚めた人」「悟った人」を意味します。

広い意味では、悟った人すべてを意味する一般名詞です。

この仏陀が省略されて「仏」となり、

日本語では「ほとけ」と読まれるようになりました。

インド巡礼記

 

ブッダは、シャカ族の王である

シュッド-ダナと王女であるマーヤ夫人の間に、

シャカ族の王子として、

4月8日にルンビニーという所でお生まれになりました。(降誕)

そこで、4月8日は「花祭り」となり、

仏教ではブッダのお誕生日のお祝いをします。

キリスト教であれば、クリスマスのようなものです。

インド巡礼記

 

神戸の摩耶山は、この「マーヤ妃」からきています。

ブッダはその後、成人し、ヤショーダラーと結婚して、

子供ラーフラを儲けたのですが、

29歳の時に思うところがあり、

周りの反対を押し切って、

とうとう髪を剃って城を出て

修行生活に入ってしまったのです。(出家)

インド巡礼記

 

その後6年間、骨と筋になるほどの

やせ細る壮絶な苦行をなされました。(苦行)

インド巡礼記

 

ある時、苦行だけでは「さとり」は得られない事に気づき、

苦行から離れました。

インド巡礼記

そして、ガヤーという地の

ナイランジャナ河(尼連禅河)

をのぞむ沙羅双樹の下で深い瞑想に入り、

ついに35歳の時の

12月8日の朝にさとりを開いたのです。(成道)

そして、ブッダ(目覚めた人)と言われるようになりました。

インド巡礼記

 

その後、その地はブッダガヤーと言われ、

また、沙羅双樹も聖なる樹(菩提樹)

として崇められるようになりました。

インド巡礼記

それから、その覚った内容を人々に説いて導こうと決意し、

バーラーナシー郊外のムリガダ-バ(サールナート)で、

初めての説法をしました。(初転法輪)

その後は次々とお釈迦さまの下に

お弟子さんが集まってきました。

教団自体も成長し、

信者も増えその信者の寄進で

あちこちにお坊さんが集う場所が出来ました。

その中でも日本の平家物語に出てくる「祇園精舎」と、

「竹林精舎」が有名です。

インド巡礼記

お釈迦さまはその後45年間も各地で教えを説き、

80歳になってふるさとをめざす 旅に出発しました。

しかし、途中で重い病にかかり、

クシナガラと言う地で亡くなりました。(入滅・涅槃)

出典 財団法人 仏教伝道協会 「仏教聖典」

ここまでのブッダの生涯については、

各宗派とも共通しています。

ブッダが仏教の始祖であり、

現在のそれぞれの宗派は、

このブッダから発展したそれぞれの教義を掲げています。

原始仏教から現代の各宗派までの

道のりと経過が分からないので、

頭がこんがらがっているのではないかと思います。

初期のオリジナルな考えを

まずしっかりと理解したいと思います。

原始仏教を詠めば、

仏教は現世利益をお願いする宗教ではありません。

自分自身の心の平穏を

修行によって形成する哲学のようなものです。

宗教を哲学としてとらえるか、感情としてとらえるか

自分の周りを見てみると、

ほとんどの人が感情の宗教としてとらえられています。

つまり、宗派の教えを聞いて、

疑いもなく信じて言われたようにすがって、

信じれば救われるという考えです。

仏教の「悟り」とは

脳と脳に集中する、

神経系統の働きが何にも邪魔されることなく、

クリアに働いてる状態であるとしています。

そうした状態でこそ、

人間は自己の本性である「仏性」を

自分の「心」の内に見出すことができると説いています。

「煩悩」とは

欲望を発動させる体液が、腰部から流れ出し、

脊髄を通って腹部や、胸部に集まってくる状態である。

その「煩悩」がさらに脳の働きを阻害することで、

人間は妄念にとらわれ、苦悩に苛まれると教えています。

仏教の目的は「離苦得楽」に他ならないが、

それを達成するために必要なのは、

あくまでも「智」であると、教えています。

まとめ

原始仏教を詠めば、

仏教は現世利益をお願いする宗教ではありません。

自分自身の心の平穏を

修行によって形成する哲学のようなものです。

仏教のとらえ方は、哲学と成仏の二つ方法があります。

一つは、哲学としてとらえる方法です。

もう一つの考えは、

無知や愚鈍さのために自力を達成できない者たちのために

他力による成仏を推奨する考えです。

インド巡礼記 関連記事 アーカイブ