足利尊氏ゆかりの、妙勝寺と八幡神社
淡路市釜口の「世界大観音像」の近くに、
「妙勝寺」というお寺があります。
ここは、建武3年、1336年
足利尊氏が京都から九州に落ち延びる途中、
釜口沖に風待ちのため船を泊めていた時、この寺を訪ねています。
「妙勝寺」と聞き、軍勝利の前兆なりと喜び、
太刀を寄進し、必勝を祈願しました。
その後、100日足らずで形成逆転、
神戸湊川の戦いで、大勝し「室町幕府」を開きました。
今では、「開運祈願」、「合格祈願」に多くの人が訪れてます。
投稿No:8979
淡路市釜口の八幡神社と 淡路市東浦の松帆神社
1336(建武3)年、敵対していた足利尊氏と楠木正成
このご縁につながる両神社の宮司さん 今は同じ宮司が兼務しています。
淡路市東浦の松帆神社は、後述するように、
楠木正成(くすのきまさしげ)ゆかりの神社です。
淡路市釜口の八幡神社は、
足利尊氏(あしかがたかうじ)のゆかりの神社です。
二つの神社のゆかりは、敵対していた時代のことでした。
1333年
後醍醐天皇がふたたび挙兵して、鎌倉幕府は滅亡しました。
1336年
足利尊氏は後醍醐天皇の家来の武将たちに敗れ、九州に下ります。
足利尊氏が京都から九州に落ち延びる途中、
妙勝寺に太刀を寄進し、必勝を祈願したところです。
九州でふたたび勢力を盛りかえすと、
尊氏軍は再び京都へ向けて進軍します。
京都を制圧して光明天皇を即位させ、
武家政権の樹立を宣言しました。
楠木正成は、朝廷軍として、足利軍とたたかい、
神戸湊川の戦いで敗戦し、自害しました。
自害する前に、家来に自分のお守りを持たせて、
事後を託し、家来は淡路市東浦げ落ち延びました。
この年1336年に、敵対する足利尊氏と楠木正成は
同じ淡路市の釜口と東浦に、ゆかりが出来ていたのです。
淡路市釜口の「世界大観音像」の近くに、
「妙勝寺」というお寺があります。
ここは、建武3年、1336年
足利尊氏が京都から九州に落ち延びる途中、
釜口沖に風待ちのため船を泊めていた時、この寺を訪ねています。
「妙勝寺」と聞き、軍勝利の前兆なりと喜び、
太刀を寄進し、必勝を祈願しました。
その後、100日足らずで形成逆転、
神戸湊川の戦いで、大勝し「室町幕府」を開きました。
今では、「開運祈願」、「合格祈願」に多くの人が訪れてます。
釜口八幡神社の縁起を記す案内板には、
八幡神社の由来と祭神について書かれていました。
神社の海岸は昔ずうっと海に突き出した
立派な崎がありこの崎を三立崎といった。
足利尊氏が妙勝寺に戦勝を祈願し、
太刀一振りを寄進したことにより、
「三立山妙勝寺」を「御太刀山妙勝寺」に改め、
「三立崎」も「御太刀崎」と改められた。
従って、当時妙勝寺が所管していたこの神社も
これに倣い御太刀崎八幡とも号した。
御祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと・八幡大神の祖神)を祀り、
社宝として「貞享の棟札」「享保の棟札」が保存されている。
南北朝時代の延元元年(1336年)5月に
楠木正成が湊川の戦いで敗れました。
楠木正成は自決する前に家臣吉川弥六に、
身に着けていたお守りの八幡大神の神璽(しんじ)を託しました。
吉川弥六は楠木正成の命令通り、
御守りを持って湊川の戦場より逃れ、
安全な所でお祀りするように神璽を首にかけ、
仲間数人と共に夜陰に乗じて海路淡路島に落ちのびました。
現在の淡路市東浦長の楠本付近の浜に辿り着いたそうです。
弥六達は潜伏を続けながら楠本の山中に小祠を建て
八幡大神を祀る一方で、楠本を開拓し
一帯を楠木正成にちなんで楠木村と称しました。
これが後に楠本(くすもと)村と改められ、
現在の淡路市楠本となったそうです。
この小祠が元の八幡神社として伝わっています。
その後、応永6年(1399年)に来馬庄(現在の久留麻の社地)に遷され、
来馬・浦・仮屋・谷・下田・楠本・中持・小田・河内・白山などの
村々の鎮守の「八幡宮(八幡さん)」となったそうです。
明治14年5月に周囲の浜辺が「松帆の浦」
と呼ばれていたことから「松帆神社」と改称し、現在に至っています。
建武の中興の時代には、敵対していた二人の武将を祀る二つの神社は、
今では、宮司さんが兼務する時代になっていました。
これが、時代の変化です。
2021年4月22日(木)