碧海寿広「入門 近代仏教思想」を読んで、井上円了、近角常観、原担山の思想を知りました。

摩耶山天上寺にお参りにいくと、宗教は哲学か、宗教は情観か、改めて考えてみました。 社長ブログ神戸/摩耶山/

碧海寿広書「入門 近代仏教思想」によれば、近角常観(ちかずみ じょうかん)氏は、

仏教の歴史とは、欲望にまみれた人間が自己の罪悪を自覚し、

そして仏に出会うことで救われるという体験の繰り返しであると指摘しています。

今日は、私も欲望にまみれた人間ではいけないと反省し、神戸の六甲山系にある、摩耶山天上寺に、同じく欲望にまみれた奥さんと一緒に、仏に会って救済をして頂きたいと思い、参詣しています。

天上寺は弘法大師が再興された由緒ある山寺です。

仏陀の聖母である摩耶夫人を祀っています。

摩耶山に登る途中、ふもとの神戸大学や、その先にある六甲アイランドや、右手に見える三宮の街並みを一望にできる展望台で、しばし下界を見渡しています。

この地域だけでも、何十万の人の生活があります。

さまざまな欲望や、苦悩を抱えている人がこれだけ住んでるのかと思うと、救済する仏様も大変です。

摩耶山天上寺の正面から本堂に上がると、険しい石段が続いています。

思い出せば、亡くなった母・松葉登美子は、80歳近くまでこの石段を、手すりに体を預けながら、独力で登り切っていました。

この石段を登らなくても、もう少し車で先に行けば、摩耶山天上寺の横に車を停める場所があります。

駐車場のあたりは下界より気温が7度ほど低く、ひんやりとした清々しい気持ちになります。

昔、インドにブッダの足跡を求めて、真理とは何かを考えながら、巡礼したことがあります。

天上寺で考えたことです。

仏教のとらえ方は、二つの方法があります。

一つは、哲学としてとらえる方法です。

井上円了(いのうえ えんりょう)氏の教えでは、哲学は疑いをその本領とし、真理を明らかにすることを目標とする、究理の学です。

宗教は信じることを本領とし、安心を得ることを目標とする安心の術です。

人間が成仏するためには、自分で仏教の真理を極め、真理を体現するための修行に努めることを必須とする考えです。

代表的なのは、華厳、天台、唯識などの「聖道門」に含まれる、諸宗は、「知力」の宗教です。

この考え方は、哲学を宗教として考えています。

もう一つの考えは、無知や愚鈍さのために自力を達成できない者たちのために、他力による成仏を推奨する考えです。

代表的なのは、浄土、真宗などの「浄土門」の諸宗は、「感情」の宗教です。

宗教を哲学としてとらえるか、感情としてとらえるか、自分の周りを見てみると、ほとんどの人が感情の宗教としてとらえられています。

つまり、宗派の教えを聞いて、疑いもなく信じて、言われたようにすがって、信じれば救われるという考えです。

私が幼い頃、家に浄土真宗のお坊さんが来ていた時、

意味不明のお経を唱え、それを聞いている家族は、お経の言葉が意味不明のまま、お経をありがたいことと受け止めて、お坊さんにお礼を言い、頭を下げていました。

ある時期から、これはおかしい、あの意味不明の言葉は何を言っているのだろうかと疑問を持つようになりました。

そこで、仏教の解説書を読んでみると、宗派によって意見が違うことに気が付きます。

そうなると、もともとの仏教の原点であるブッダが、何を伝えたかったのかを、読んでみる必要があります。

読んでみて、その先にブッダが苦行を行ったインドに行ってみたくなり、巡礼に行ってみました。

東大でインド哲学を講義した原担山(はら たんざん)氏は、

仏教の「悟り」とは、脳と脳に集中する、神経系統の働きが何にも邪魔されることなく、クリアに働いてる状態であるとしています。

そうした状態でこそ、人間は自己の本性である「仏性」を自分の「心」の内に見出すことができると説いています。

「煩悩」とは、欲望を発動させる体液が、腰部から流れ出し、脊髄を通って腹部や、胸部に集まってくる状態である。

その「煩悩」がさらに脳の働きを阻害することで、人間は妄念にとらわれ、苦悩に苛まれると教えています。

仏教の目的は「離苦得楽」に他ならないが、それを達成するために必要なのは、あくまでも「智」であると、教えています。

近代仏教思想を読んだ後に摩耶山天上寺に来てみると、

仏像の前でただただ慈悲を求めてすがっていく人たちと、

仏陀をはじめとするこれまでの宗派の開祖の考えたことを理解しようとする参拝の方法があることに気が付きます。

はじめは、いわゆる他力本願の考えで、ただただ仏に救いを求める方法であっても、

それぞれの人が持っている知力の要素が入ってきて、自らが考えてみるという宗教の理解方法も必要だと思いました。

摩耶山天上寺では、いろいろな悩みや不安、欲望に対して、個別に加持祈祷してくれます。

密教による加持祈祷は、太鼓をたたいて、護摩を焚いて、厳粛の儀式です。

しかし、ブッダの考えを比較的早く編集した「スッタニパータ」では、仏陀は加持祈祷、占いなどはしないようにと教えています。

お彼岸も終わり、これから涼しくなってきます。

秋の夜長に、哲学の本や宗教の本を読み直してみたいと思います。

やはり、思索の時間は必要です。



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