サンプラザビルの倒壊 柏井ビルの倒壊 阪神淡路大震災の当日に起きた事 1995年1月17日

サンプラザビルの倒壊 柏井ビルの倒壊阪神淡路大震災の当日に起きた事 倒壊した柏井ビルには、取引先のメニコンが…

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「崩壊したさんプラザビル」

サンプラザビルが倒壊しました。阪神淡路大震災の当日には様々な事が起こりました。

1995年1月17日未明の阪神淡路大震災の被害の状況は、少しずつ記憶から忘れつつあります。

松葉博雄は職場では、さんプラザビルの崩壊を経験しました。

自宅では岡本で罹災しました。岡本及び摂津本山地区の被害の状況は、目を覆う程の痛ましい崩壊ぶりでした。この大震災を顧みれば多くのことを学びました。

震災当時は復興に力を注いで震災のことを記録するゆとりはありませんでした。

しかし、職場と自宅で罹災しその後の復興に心労を費やしたことをもう一度振りかえり、教訓として活かすべきことは後世に伝える責務を感じています。

当時の状況や復興に費やした努力をこれから紹介していきたいと考えています。

サンデー毎日・臨時増刊号より

※ サンデー毎日・臨時増刊号より

午前5時46分、いきなり布団の中で寝ていた体が激しく上下に揺れ、目は覚めたものの何が起きているかわかりません。ジェットコースターに乗って激しく揺れている光景を思い出しました。

つかまる物も無く、布団の中から起きる事も出来ず、ただひたすら揺れが収まる事を願いました。

機械を使って振動を起しているようにすら感じました。

後から分かったことは、わずか60秒にもならない短い一瞬の時間だった、という事です。

恐怖の時間は一瞬ではなく、とても長く感じました。布団の中では早く収まって欲しいと思う気持ちがいっぱいでした。

叩きつけられるような激しい揺れが収まった時に、やっと立ち上がる事ができました。

幸い、私の寝ていた部屋の周りや、布団の周りには倒壊物が無く、身体には損傷が無いことがわかりました。起き上がって家族の安否を確認するために、大声で「大丈夫か」と叫び続けました。

2階で寝ていた家族にも、幸い、損傷が無いことがわかり、ホッとしました。

1階の居間を見れば、南東の壁に向かって据え置いていたピアノは、床を横断し、北西の壁際まで移動していました。ピアノの脚にキャスターが付いていたので、倒れないで済んだようです。

部屋の中で海水魚を飼っていた水槽は床に倒れ、辺り一面、水が撒き散っていました。部屋の中は略奪を受けたように滅茶苦茶に散乱し、食器やガラスの破損のため、素足で歩く事は危険でした。

火の用心、と言う言葉が頭によぎり、ガスの元栓を止め、家族と共に外に避難することにしました。ところが、玄関のドアが開きません。地震の衝撃でドアが開かなくなっています。力いっぱい引っ張り、壊れる事を覚悟でこじ開けて、外に出る事ができました。

1月の早朝は辺りはまだ薄靄の中に、うっすらと陽が上がり始め、夢の中にいるような思いでした。

天井川のところまで出てみると、新聞配達のお兄さんが走りながら「大変や、大変や」と叫んでいる姿を見ました。何が起きたかわからないまま、新聞配達のお兄さんに「おはよう」と言って過ぎ去りました。

外は寒く、寝巻きのままでは震えそうな寒さなので、もう一度家に戻り何か着る物はないか、と探しに戻りました。もう一度部屋を見れば、家の中は整理する気にもならない程ぐちゃぐちゃで手も付けられず、電気もつかない暗い部屋の中でやっと服を見付け、着ることができました。

テレビもラジオも我が家には無いので、さっぱり状況がわからないまま、近くの姉の家に行ってみました。

少しの距離の差ですが、姉の家はほとんど無傷で、ドアも開き、部屋の家具の倒壊もありません。

ここでしばらく夜明けを待ち、三宮に行くことにしました。

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周りは夜が明けるに連れて、はっきりと見えてきました。近隣の家には、昔ながらの瓦造りの屋根が多く、屋根が瓦のお家は倒壊している家が多い事がわかりました。

毛布にくるまって道路に座り込んでいるお年寄りを、家族の方が介護している姿が見えました。半壊しているお家では、2階の窓から家に入り、中にいる逃げ遅れた人や、自力で歩けない人を救出する作業が少しずつ始まっています。

一軒一軒の家で起きたことは外からは詳細はわかりません。まず、頼りになるのは家族や同居人でした。大声で助けを求める家族の方の声を聞き、何人かの人が集まり救出のお手伝いをしているお家もありました。

私は突然のことなので枕元に置いていたコンタクトレンズがすぐには見つからず、家の中で探してやっと見つけましたが、水道水は出なく、洗うにも困りました。

情報の80%以上は目から得る事は、この時にもよくわかりました。コンタクトレンズが装着できると、これまでに見えなかった地震の状況が、先ほどとは打って変わってはっきりと見えてきました。

ご近所では、救出活動のためにたくさんの人が往来を行き来し、緊急事態発生の雰囲気がひしひしと伝わってきます。

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朝の9時頃、車で三宮に行ってみることにしました。

車で三宮に行くことは、冷静に考えれば無謀な事なのですが、あの時は情報がなく、何が起きているのかもわからないままハンドルを握りました。

岡本を出て三宮に向かう途中、2号線を走っている時に、灘区ではボーリング場の巨大なピンの広告塔が道路に落下し、国道のすぐ端に転がっていました。傍で見ると、なんだろうかと一瞬考えました。少し離れてみるとボーリング場のピンの模型だということがわかりました。

阪神淡路大震災 高速道路倒壊 岩屋交差点

灘区の国道沿いでは火災が発生し、炎と煙の中を車はくぐり抜けました。

神戸製鋼の本社のある脇浜の岩屋交差点辺りでは高速道路が崩れ落ち、巨大な壁のように道をふさいでいました。車が走っていない路面には、荷台から転がり落ちたミカンが散らばっていました。最初、高速道路の路面が立ちふさがっているとは思ってもみなかったので、この壁は何の壁かわかりませんでした。

道路状況はその後、一変し、とても車が走行できなくなりましたが、あの時は初期活動が早かったので、なんの規制も受けないで三宮にはスムーズに到着しました。三宮は人気も少なく、静かでまだ被害の状況は把握出来ない状態でした。

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職場のあるさんプラザビルに入ってみると、明かりは全て消えて、洞窟の中に入っていくような不気味さを感じました。吹きぬけのあるホールを動きの止まったエスカレーターを歩いて登り、3階へ行きつく途中は天井から落下したガラスの破片が飛び散っていました。

カギを開けて我が社の店内へ入ってみると、光学機器は横転していました。幸いなことにコンタクトレンズの在庫は、ロッカーに入れてカギを掛けていたために散乱することもなく無事でした。

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誰もいない暗いさんプラザを自然の光を頼りに地下の保安室へ行ってみました。宿直の保安員の方はまだ被害の状況を把握出来ていませんでした。

さんプラザビルを外から見ればそれほど被害はないように見えましたが、後からわかったことは、ビルの6階部分が柱折れしてダルマ落としのように崩壊したまま重なり合っていたことがわかりました。

さんプラザの北東の角にある太平閣の側にある公衆電話のところに行きました。当時は携帯電話もなく、公衆電話が頼りで、安全確認や業務連絡をとろうとしました。どの公衆電話にも人の列ができて、なかなか順番が回って来ないのであきらめました。

東急ホテルに避難所を求めて行ってみました。東急ホテルのロビーにも、毛布に身をくるんだ避難の人々があふれ、とても避難所としてホテルを利用することは難しい事がわかりました。ホテルには旅行者の方が一泊のつもりで昨夜から滞在している方がいました。何も持ち出せないまま、毛布にくるまって寒さに震え、恐怖に耐えているようです。

センター街の倒壊状況

センター街に行ってみると、アーケードは商店街に落下し、鉄骨は剥き出しのまま道をふさいでいました。

お昼頃になると元町に近い三宮商店街から出火があり、燃え盛る炎がセンタープラザビルに近づいていました。消防隊の皆さんが消火活動を必死に行なってくれていました。

今、目の前で燃えているビルのテナントの方は、指を差しながら「燃えている、燃えている」と涙を出しながら叫んでいる声が聞こえました。

柏井ビル 倒壊直前

状況がわかるにつれて避難をする必要を感じました。三宮から新神戸へ向う大通りには、取引先のメニコン神戸営業所が入っている柏井ビルがあります。この柏井ビルは10階建てですが、見た目にわかるほど道路側に傾きかけていました。

柏井ビル

(出典:阪神大震災全記録1995年3月(神戸新聞社))

私が通過した時は、なんとか立っていましたが、その後すぐに倒れ、その向いのビルを破壊し、道路をふさいでしまいました。このため、復旧の支障となり車が通れるようにビルは、くり貫かれました。

その倒れた時の写真がこちらです。(出典:阪神大震災全記録1995年3月(神戸新聞社))

柏井ビル

眼科医師会の幹部の先生に今後の対策や指示を頂こうと、自宅を訪ねてみました。安否の確認も兼ねてお家に訪ねてみましたが、ご不在のようで、なんの応答も得られず、諦めました。

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そうこうする内にだんだんと災害現場の雰囲気になってきましたので、一旦自宅に戻る事にしました。冬の日没は早く、何時の間にか夕暮れになり、今日一日が終わりかけています。テレビもラジオもないまま、最も被害の軽かった姉の家に兄弟が集まり、善後策を考えました。

乏しい情報の中で長田地区では夕方頃火災が発生し、それを取材するヘリコプターの音が一層不安を煽るようで不安な夜になってきました。停電により明かりもないなかで震災後初めての夜が更けていきます。

本山マンション 阪神淡路大震災

余震が時々あり、揺れが恐さを思い出させます。寒さ、空腹、水、連絡など、不安なことがいっぱいある中で、わからない情報を元に推測しながら、長い時間対策を考えるうちに深夜となり、寝る事にしました。



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