ペリー提督は、沖縄に上陸し、中城城、恩納村などを詳細に調査しています。
ペリー提督は、沖縄に上陸し、中城城、恩納村などを詳細に調査しています。 太平洋戦争の時、もし、日本軍が中城城を陣地にしていれば、中城城は空から海から爆撃され、今の中城城の城跡は残っていません。 第152回沖縄訪問(8)社長ブログ/沖縄ブログ/恩納村ブログ/恩納村リゾート生活
ペリー提督は、沖縄に上陸し、中城城、恩納村などを詳細に調査しています。
中城城跡を、ボランティアの
ガイドさんが説明する話を聞きながら、
旅行のグループ参加社でもないのに、
グループについてずっと歩いてきています。
所々で立ち止まっては、人数を確認しているので、
バスガイドさんは三人増えたことに気がついています。
でも、何も言われませんでした。
太平洋戦争の沖縄戦では、
中城城はアメリカ軍から攻撃されていません。
それは、この城に日本兵が立てこもっていなかったからです。
もし中城城を、日本軍が陣地として使っていれば、
アメリカ軍は空からの爆弾、海からの艦砲射撃で、
中城城は、徹底的に破壊されていたかもしれません。
お城の途中には、文化財として、
調査発掘中の場所もありました。
中城城の構造についてまだまだ、
分からない事が多いようです。
本土のお城の石垣は、表面に築石、
その奥に1~数メートル程の裏込石材が詰め込まれ、
裏込より後ろは土が盛られるという工法が一般的です。
それに対し、
沖縄のグスクの城壁は石塁となっており、
内部に土は入っておらず、
全てが裏込石材となっています。
そのためグスクの城壁内部は、雨水が抜けやすく、
長雨が続いてもほとんど崩れることはありません。
沖縄では地震も少ない事もあり、
城壁に生える樹木の管理さえしっかりしておけば、
長い年月城壁を維持することができます。
しかし、 西側城壁と拱門は
築造から長い年月が経っており、
石積みが緩んで崩落する危険性が高かったため、
平成23年に石積みを解体し、
平成25年度に北側のみ積み直したそうです。
南側の修復は、
平成26年度に周辺の発掘調査をした後に行う予定です。
中城の歴史は、辿ると14世紀中頃にまで遡るのですから、
いくら元々の造りが、
本土の石垣より耐久性が高くても、
やはり老朽化が進んでいるようです。
ここに幕末のころ、
ペリーの艦隊がやってきて、
城の状況を描いた絵図や、
測量図面等を残したそうです。
ペリーの艦隊の目的は、
日本に開国を求めることでしたが、
沖縄では、船の燃料となる
石炭が沖縄に出るかどうかを調査しています。
江戸幕府に開国を迫る前に、ペリー艦隊は、
沖縄に上陸して、沖縄各地を調査しています。
恩納村の博物館には、ペリー艦隊が恩納村に来た事を、資料で掲げています。
写真がなかった時代なので、
ペリーの艦隊には、画家がいて、
各地を写生して、幕末の頃の沖縄の状態が詳しく描かれ、
今となっては貴重な、当時を知る資料になっています。
上の写真は、ペリーの艦隊にいた、
画家が描いた中城城の正門で、
図で言うと、①になります。
お城から出て、外をまわっています。
岩をくりぬいて、鍛冶工房を作っています。
カンジャーガマ(鍛冶屋跡)
15世紀の琉球王朝の按司である護佐丸が、
阿麻和利と抗戦するために
武器を作っていたという説もありますが、
実際このカンジャーガマが
どのように使われていたのかは、分かっていません。
そうすると、砂鉄はどうしたのでしょうか?
沖縄には、鉄が出ません。
貿易で調達したのでしょうか?
向こうの方に見える、高層階の櫓は、
実は1970年頃計画されていた、
中城高原ホテルの廃墟です。
計画はしたものの、ホテルは建設できませんでした。
工事の途中の状態でとまっています。
芝生の隅に、月桃(ゲットウ)の草むらがあります。
月桃は、草の葉が匂いが良いので、沖縄では、
お餅をゲットウの葉で包んでいます。
中城城をまわる、順序が違っていたので、
最初の正門の所に来たあとは、
正門の近くには世界遺産の記念碑を見つけました。
中城城跡は、世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)
/ 国指定史跡 / 日本100名城 に指定されています。
色々回った後、お城の周りを歩いて帰ります。
お城の周りは樹木が多く、散歩するには素晴らしい所です。
神戸なら5月に見頃を迎える、
アヤメが石垣の下に咲いていました。
沖縄の樹木が茂る中で、アヤメは、内地でも、
初夏に咲く美しい花で、中城城で見ると、
ここも日本のお城の一つだなぁと思いました。
2015年4月11日(土)