松葉氏の家租 松葉遠江次郎資宗 資宗は『吾妻鏡』に松葉次郎とみえ、 尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称したのだという。松葉氏の家租 松葉遠江次郎資宗 松葉さん集合 松葉さん一覧
松葉さん集合を象徴している、
樹齢250年以上と推定される、
国の天然記念物に指定されている
久米島のリュウキュウマツです。
高さが6m、幹の周りが4.3m、
枝が地面をおおう面積は250㎡にも及びます。
外見から見ると多くの枝が集まり、
葉は「松葉」です。
松葉だらけですがその根は一つです。
松葉姓はもともとこの「五枝の松」のように
どこかで繋がっているのではないでしょうか。
松葉氏の家租 松葉遠江次郎資宗
戦国時代、安芸南部で活動した
国人領主平賀氏は太政大臣良房の後裔といい、
平賀系図によれば松葉遠江次郎資宗が 始祖となっている。
資宗は『吾妻鏡』に松葉次郎とみえ、
尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称したのだという。
源頼朝の旗揚げに参加し、源平合戦における功によって、
出羽国平鹿郡、安芸国高屋保、上総国桜屋郷、
越中国油田条などを領有するようになった。
資宗は源実朝の学問所番衆を務めており、
文人としての才能もあったようだ。
安芸の松葉氏(平賀氏)
安芸平賀氏は太政大臣であった藤原良房の後裔を称し、
松葉資宗(すけむね)を始祖としている。
資宗は源頼朝に協力して
治承・寿永の乱(源平合戦)で数多くの功を挙げ、
出羽平鹿郡、安芸高屋保、上総桜尾郷、越中油田条を与えられた。
資宗の子、松葉惟泰(これやす、平賀惟泰)の頃に出羽平鹿郡に下向、
在所の名を取って平鹿氏(平賀氏)を称した。
惟泰の兄・松葉朝宗(ともむね)は
建保2年(1214年)4月19日に
将軍・源実朝を烏帽子親として元服して
その1字を与えられて初め実宗(さねむね)、
のち朝宗と名乗った。
惟泰自身も貞永2年(1232年)7月11日に
北条泰時の邸宅で元服して「泰」の字を与えられ
また弟の松葉惟時(これとき、平賀惟時)も
北条時頼の邸宅で元服して「時」の字を与えられている。
文永11年(1274年)頃に平賀氏の一族が元軍の攻撃に備えて、
大陸や半島に近い他の御家人らと共に西国に下向。
そのまま所領の安芸高屋保に御薗宇城を築いて居城とした。
鎌倉幕府が滅亡すると、
高屋保を領していた平賀共兼(ともかね)は足利尊氏に従って活躍した。
しかし、庶長子であった共兼は平賀氏の惣領であった
弟の平賀直宗(なおむね)と家督相続で対立。
この抗争に直宗が勝利した結果、
直宗が高屋保に下向して高屋保の支配にあたった。
これより平賀氏の本拠は安芸高屋保となり、
出羽平鹿郡等は徐々に失われていった。
安芸国人領主となった平賀氏は勢力の拡大に腐心し、
近隣の国人との連携を深めていった。
室町時代・戦国時代における
歴代当主は大内氏当主より偏諱を受けている。
応永の安芸国人一揆でも指導的役割を果たし、
毛利氏の家督を巡る内紛にも介入して、
毛利宗家と庶家の和解に尽力した。
戦国時代に入ると、
当主の平賀弘保は文亀3年(1503年)に白山城を新たに築いた。
永正5年(1508年)、周防・長門の大内義興が
足利義稙を奉じて上洛した際には、
弘保も他の安芸国人と共に上洛して、
船岡山合戦等でも活躍した。
その後、大内氏と尼子氏両者の争いが激化した。
大永3年(1523年)6月、大内方の鏡山城が落城すると、
弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、
近隣の頭崎山に頭崎城を築城。嫡男の興貞を城主とした。
ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、
大内方に味方した弘保と孫の隆宗・新九郎(後の広相)
兄弟で争いを繰り広げることとなった。
天文9年(1540年)、
大内義隆の命を受けた毛利元就が高屋保へと進出、頭崎城を攻略した
敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は
興貞の嫡子である隆宗が相続した。
隆宗は大内方として活躍するが、
天文18年(1549年)に備後神辺城を攻撃中に死去した。
弘保は家督を新九郎に継がせようと考えたが、
義隆の策謀によって平賀氏の家督は
小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、
平賀隆保と名乗った。
天文20年(1551年)に
大寧寺の変で義隆が陶隆房によって殺害されると、
陶方に味方していた毛利元就は、
大内方であった頭崎城の隆保を攻めて自殺させ、
家督を新九郎に継がせた。
新九郎は毛利氏よりその祖先・大江広元に
因む「広」の字を与えられて「広相」と改名、
毛利氏との関係強化に努め、
近隣の小早川氏に養子に入った小早川隆景と義兄弟の仲となり、
国人としての自律性を有しながらも毛利氏への従属を深めていった。
これに伴い偏諱も毛利氏当主から受けるようになっている。
永禄10年(1567年)に広相が死去すると家督は嫡男の元相が継いだ。
毛利氏が最大勢力を築いていた頃には、
平賀氏の所領も最大となり
1万8,000石を領する規模まで成長していた。
毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行して移住し、
所領も4,000石と大幅な減封となったため、
元相はそれに苦悩して翌年の慶長6年(1601年)に家禄を返上して上洛。
京都での隠棲生活に入った。
後に嫡男の元忠(もとただ)が300石の毛利家臣として復帰。
なおも京都に住み続けた元相であったが、
寛永13年(1636年)に孫の就忠(なりただ)からの要請を受けて萩に戻り、
99歳で大往生を遂げた。
平賀氏はその後も毛利氏家臣として続いた。
美濃の平姓松葉氏
美濃国本巣郡の根尾村越波(オッパ)の地に、
松葉氏があると言われている。
ここの願養寺に郷土史料としての「松葉氏系図」が伝承されているようである。
寿永2年(1183年)5月、越中の礪渡山に於いて木曾義仲の軍に大敗し、
美濃、飛騨などに逃れた人々の後孫と見られている。
尾張の松葉氏
松葉氏は尾張国海部郡に松葉郷があり、
平安時代に編集された「和名類聚抄」に記録が残っている。
地名による松葉は尾張の他には、武蔵、相模、伊予などにも認められている。
尾張の松葉氏は、
その後出羽に転じて平鹿郡に移り住むこととなった。
渡会(わたらい)一門の松葉氏
伊勢神宮の社家の中に松葉氏の系族があると言われている。
松葉氏の同族には、松林、松並、松下、松原、松永、松倉などがあり、
どれも渡会一門の支流と伝えられている。
諸国諸流の松葉氏
常陸国那珂郡芳野村大字飯田に松葉氏の伝承があるという。
「天正13年(1585年)松葉織部允武政についての記述」
常陸の佐竹氏の家臣に松葉氏織田信雄の将、丹羽五郎左衛門、
丹羽長秀の家臣に松葉氏があったようである。
茨城県土浦市の松葉氏
関東における、土浦市の松葉氏は
今(2004年)より九代前の祖先が医学を学び、
土浦郊外の手野という村から土浦の城下に出て開業したという。
松葉氏には三人の男子がいて手野、土浦、石岡、君津に分かれその子孫は医師が多く、
関東での松葉姓の医師は何らかの姻戚関係が窺い知れる。
千葉の君津で現在皮膚科を開業している松葉氏とは、
五代前に枝分かれしていることが相互に確認された。
一族の特徴は男子の名前が皆漢字一文字になっているとの事です。
大和国十津川の松葉氏
大野村庄屋 松葉藤兵衛の名が「
大和十津川国鎗役由緒書」の文書に残されている。
この松葉氏の由来については、詳細が分からない。
南九州の日向国の松葉氏
この地方の鎌倉時代以降の領主であった
工藤祐経の子孫である伊東氏の歴史を伝える
「日向記」に松葉六左衛門尉、松葉新九郎などの人名が見られる。
戦国末期の争乱の時代には、
松葉市左衛門が宮崎城に討死した事が記されている。
明治維新により、苗字を名乗る事への自由や、
移住の自由により、領民から市民へと身分が変わり、
多くの苗字が誕生した。
明治の後期に弁護士より判事となり、
政友会の県支部の重鎮であった松葉秀太郎の名がある。