野村銀行(大和銀行)の社史、適塾からの大阪医学校の歴史、ふたつの歴史から、松葉眞一と有松潤一郎の2人の祖父が大阪市中央区今橋あたりに、関係していたことが分かりました。
野村銀行(大和銀行)の社史、適塾からの大阪医学校の歴史、ふたつの歴史から、松葉眞一と有松潤一郎(義祖父)の2人の祖父が大阪市中央区今橋あたりに、関係していたことが分かりました。松葉眞一(祖父)が学んだ、大阪医学校の前身、適塾は淀屋橋の大阪倶楽部の近くにあります。
松葉眞一と有松潤一郎の2人の祖父
地下鉄御堂筋線淀屋橋駅から5分ほどの、
今橋にある大阪倶楽部に行きました。
御堂筋のいちょう並木は、少しずつ芽が吹いていました。
大阪プールで、食事が出来なかったので、
大阪倶楽部で食事をすることにしました。
大阪倶楽部の先輩にお会いして、
また大学院に行くことを報告したら、
「がんばってくださいね」と、応援されました。
先輩のお話では、
「健康に自信を持ちすぎると、体の方が付いていけなくなって、
倒れることもあるから、ほどほどのがんばりで、
余裕を持った生活をするように」と、
アドバイスを受けました。
つまり、「がんばりすぎないように」
ということです。肝に銘じておきます。
大阪倶楽部には、古くからの企業の社史があるので、
松葉博雄のおじいさんが、どんな活躍をしたか、
いろいろ社史を調べてみました。
義祖父 有松潤一郎
松葉博雄のおじいさんは、大阪倶楽部がある近くで、
旧野村銀行その後の大和銀行の頭取をしていました。
大和銀行の頭取の他に、
大阪ガス他のいくつかの企業の役員もしていました。
そこで、おじいさんから聞いていた、
大阪の企業の社史を探してみました。す
ると、野村銀行や大阪ガスの社史が大阪倶楽部には保存されていました。
野村徳七の才能は、商才だけでなく、
京都野村別邸 碧雲荘の造園と、
茶席、能舞台にも発揮されています。
福沢諭吉が作った慶應義塾大学を卒業して
野村徳七が設立した野村商店に入り、
その後、野村銀行の責任者になり、
多くの企業の役員をしていたので、写真もありました。
福沢諭吉の門下生であった
祖父、有松潤一郎は、戦後の大阪の経済界で、活躍しました。
昔、祖父が社内旅行をしていたときの写真を見つけました。
大阪倶楽部は、歴史も古く、企業研究をするにあたり、
多くの資料があるので、
またこれからも利用したいと思います。
大阪倶楽部の建物は、
南欧風の様式に東洋風の手法を加えたものとして、
大阪の近代三大名建築の一つとされており、
平成9(1997)年5月には、
文部大臣から登録有形文化財の指定を受けました。
談話室の室内には、落ち着いた調度品が置かれていて、
ゆっくりと寛ぐことができます。
祖父 松葉眞一医師
松葉博雄のもう一人のおじいさんは
この大阪の地で、適塾から始まる、
日本で初期の近代医学を教える学校に入学しました。
それは、大阪医学校、府立医科大学、
さらには大阪大学医学部へと発展しています。
ここで近代医学を学んだ祖父は、その後、
陸軍広島病院で、軍医となり、医学の道へ進んでいきました。
祖父松葉眞一が学んだ、大阪医学校は、
今の大阪大学医学部です。
その前身は、大阪淀屋橋にある、
緒方洪庵が適塾にあるといわれています。
適塾のあった、淀屋橋界隈は、今では高層ビルが立ち並び、
高いビルの間に、谷間に埋もれるように、
適塾の屋敷が保存されています。
外から見ると、中はうかがい知れませんが、
今では、公開されているので、
入場料を払えば見学できるようです。
隣のビルから、適塾を見る事が出来ました。
上から見る屋敷は、瓦造りで、
その中までは見通すことが出来ませんが、
よくぞ、適塾の屋敷跡が保存されたものだと驚きます。
こうしてみると、
松葉博雄のおじいさんの松葉眞一と
有松潤一郎の2人のおじいさんは、
ひょっとすると、この大阪倶楽部の近辺で、
すれ違っていたかもしれません。
歴史を知ることの面白さを感じました。
大阪倶楽部を出ると、ビルの谷間にも、
春が来ていることを見つけました。
若葉が光りに輝き、とても綺麗でした。
大阪淀屋橋近辺は、ビルの立替工事があちらこちらであり、
景気の回復と、都市の再構築を感じます。
これから、一層、高層ビルに囲まれそうと、
思いながら、自然の緑が貴重な癒やしになることを強く感じました。
2007年4月5日(木)