会社研究/コンタクトレンズ業界(2)/ボシュロム株式会社

会社研究/コンタクトレンズ業界(2)/ボシュロム・ジャパン株式会社

1.ボシュロムの歴史物語「海を渡った二人の若者」

「ボシュロム」はアメリカンドリームを手にした二人のファミリーネームからなる社名です。

ジョン・ジェイコブ・ボシュとヘンリー・ロム。ドイツ生まれの二人が新天地アメリカで出会った事が、ボシュロム150年の歴史の幕開けとなりました。

J.J.ボシュはドイツに生まれ、スイスの眼鏡店で眼鏡技師として働いた後、1849年にアメリカで運を試すことを決意し、19歳で渡米。同じくドイツ生まれで二つ年上のH.ロムがアメリカへ渡ったのも奇しくもこの1849年でした。

ニューヨーク州ロチェスターで出会い、ドイツ移民同士ということで友人となったボシュとロム。しかし人生を共にするビジネスパートナーとなる「運命の約束の時」までには、まだ数年の歳月を要します。

1853年、J.J.ボシュはいくつかの職を転々とした後、本来自分が得意とする分野で店を構えます。

まだアメリカ製の眼鏡が無く、全米中探しても顕微鏡が50台もなかった時代に、故郷ドイツから眼鏡、望遠鏡、オペラグラス、顕微鏡などヨーロッパ最先端の光学機器を輸入し、ロチェスターのレイノルズ・アーケードに開いた小さな店で販売を始めました。

しかし、ビジネスは思うように運びませんでした。高価なフレームとレンズのセットからなる当時の眼鏡は、視力矯正器具というよりはファッションやアクセサリーといった類の贅沢品だったのです。

3年たっても赤字を脱せず、ついにボシュの店は岐路を迎えます。この時、ビジネスの存続を助けてくれたのが、ドイツ移民の友人であるH.ロムでした。

2.「運命の約束」と「運命の発想」

アメリカに渡って以来、大工として働いていたロムは、窮地に立たされた友人であるボシュのビジネスに大金の60ドルを投資します。

二人はそのときに握手を交わし、ボシュは、ビジネスが軌道に乗った際には、ロムをパートナーとして会社に迎え入れるという約束をします。

この約束が、二人の運命を決定づけるものとなりました。ロムから借りた60ドルで窮地を凌いだボシュの事業でしたが、なかなか軌道には乗りませんでした。

時間とともに負債は膨らみ、再びビジネスの存続に関わる決定的な時を迎えるのは明らかでした。

この絶対的な逆境の中で、ボシュはある一つの発想に至ります。きっかけは、道ばたで拾ったひとかけらのゴム片でした。

当時のプラスチックとも言うべき加酸処理されたゴム(硬質ゴム)は、廉価で加工し易い素材として、ペンや櫛、アクセサリーなど様々な製品に利用されていました。

この硬質ゴムを手にしたボシュは、高価なメガネフレームに代わる材料として着目します。「この材質はメガネに理想的だ」そう確信したボシュは、早速、どのようにフレームの形に加工するか、実験を始めます。

自宅のストーブで溶かしてみたり、手作業で刻んでみたり・・・

そしてボシュはついに、薄い硬質ゴムシートからフレームを打ち抜く手動パンチプレスを開発し、まったく新しいメガネフレームの大量生産に目星をつけます。ときに、1861年、運命の約束から5年が過ぎていました。

3.「約束の成就 共同経営」

ボシュがフレーム生産の足がかりとなるパンチプレスを開発した頃、アメリカ社会は南北戦争に突き進んでいました。

ボシュのビジネスを友人として支えてきたロムは、志願兵として北軍に参加、戦地に赴きます。当初60ドルだったロムに対するボシュの借金はすでに1000ドルにまで膨れ上がっていましたが、ロムは兵士としての給料の一部さえもボシュに送金し、事業の存続と発展を支援し続けます。

軍曹から大尉まで昇進したロムが除隊後ロチェスターへと戻ってきた時、ボシュのフレーム生産の事業は30人の従業員を抱えるまでに発展していました。そしてボシュは長年の友人に対する約束を果たします。

1863年、共同経営者としてロムを迎え入れ、正式に Bausch & Lomb Optical Company(以下、ボシュロム)が設立されました。

そしてボシュロムの開発した硬質ゴム製フレームの眼鏡は、その使い勝手の良さから、好評を博し、順調に売上を伸ばしていきました。

1866年になると、硬質ゴムの製造元であるアメリカン・ラバー社と提携を行い、アメリカの中心であるニューヨーク市に営業所を開設。

ロムはN.Y.で経営の指揮を執り、ボシュはロチェスターで研究開発に専念するという二人の共同経営のスタイルが形作られました。

順調な収益が、ボシュの実験と研究を支え、さまざまな新開発技術を生み出していったのです。

1874年には事業を拡張。ロチェスターのセントポール通りとビンセント通りにある3階建てのビルに移転を果たします。ここはその後100年にわたり、本社となる運命的な場所でした。

そしてこの頃、第2世代が会社にその足跡を残し始めます。その象徴的な事業の一つが、J.J.ボシュの息子・エドワード・ボシュの指揮により製造された顕微鏡です。

4.「フレームからレンズへ」

J.J.ボシュの息子エドワードは、眼鏡技師の息子にふさわしく14歳で簡単な顕微鏡を作ったと言われています。

勤勉だったエドワードはコーネル大学で工学を専攻した後、父の事業に参加し顕微鏡ラインの開発を手がけ、1876年のフィラデルフィア万国博覧会にボシュロム製品として顕微鏡を出展します。

建国100年を記念して行われた万博で、ボシュロムの顕微鏡は世界に存在を知らしめ、いくつかの賞を受賞しました。

こうして量産が可能になった顕微鏡は、医師や科学者はもちろんのこと高校生や大学生でも手の届く価格となり、エドワードが指揮した事業は、研究や教育の分野にも大きな影響を与えました。

その後、1880年代には、製造ラインに写真用レンズを加えます。エドワードは、この分野でも才能を発揮し、新しい技術を開発していきます。

たとえば、特許を取得した「レンズ間アイリス型ダイヤフラムシャッター」は、何枚にも重なる葉状の部品が円形の開口部を構成し、露出時間に合わせて絞りの大きさを調整できる画期的な発明でした。

この技術が盛り込まれたボシュロムレンズは、当時同じロチェスターに本社を置いていたEastman Kodak社のカメラにも採用され、 「カチッ」という音と共に機敏にシャッターを切るスナップショットカメラを登場させ、スナップ写真を撮る行為をよりポピュラーなものにしました。

世界が写真の楽しみを謳歌するにつれ、撮影したスナップ写真を大きなスクリーンに映し出したい、というニーズも高まりました。

これに合わせてボシュロムはBalopticonというスライド映写機を開発し、静止画像の映写分野に参入します。この映写機はガラス製のスライドと共に広く学校、大学、市民団体などに普及していきました。

順調な発展を遂げるボシュロムには、先進技術以外に、もう一つの特徴的な側面がありました。それは、共済組合を発足し、労働者に保険を提供するなどといった、福利厚生や教育といった面でのサポートでした。

利潤ばかりを追求するのではなく、労働者の待遇にも最善を尽くしていった当時としては革新的な経営思想はH.ロムがもたらしたもので、その他にもロムは従業員の技術教育のために、個人の財産を投じてメカニック・インスティテュート(技術学校)を設立し運営しました。

このメカニック・インスティテュートは、ロチェスター工科大学として現在に至っています。

5.レンズは海へ 空へ そしてハリウッドへ

1900年代の前半、会社はJ.J.ボシュとH.ロムの時代から、ボシュの息子のエドワードやウィリアムの時代へと移っていく時期であり、世界は二度の大戦を通じ、激動の時代を迎えていました。

こうした時代背景の中、ウィリアムが高品質の光学ガラスの製造に成功。

それまではアメリカ国内で生産することができず、ヨーロッパからの輸入に頼っていた光学ガラスを輸入品よりも優れた品質で生産できるようになります。

そして、先進の技術は歴史の流れに合わせて活躍の場を広げていきます。その一つの舞台が「海」でした。

双眼鏡や望遠鏡、測距機など、世界の海へ繰り出すアメリカの艦隊には正確な測定を可能にする光学機器が必要とされていました。

一方「空」でも、航空機に搭載される測量用航空カメラレンズやパイロット用のゴーグル、眼科検査機器など高性能な光学機器を製造。

さらに、1926年になると、あの有名なパイロット向けの「Ray-Banサングラス」が開発されます。

そして1937年より一般にも販売されるようになったRay-Banサングラスは、1990年代終わりまでの長きに渡りボシュロムの人気ブランドとして、映画やファッションの分野にも大きな影響を与えることになるのです。

ボシュロムの高品質な光学ガラス製造技術は、エンターテイメントの分野での技術革新にも貢献してきました。ボシュロムでは1915年より映画撮影用のカメラレンズを製造しており、1922年に発表された「Super Cinephor映写レンズ」は、映画業界の標準になっています。

1950年代は、アメリカにおいても娯楽文化が花開いた時期でした。

テレビ全盛時代を迎えていた当時のアメリカの映画関係者は、映画人気の低落を恐れ、ステレオサウンドや3Dなど様々な最新技術を導入していました。

その一つであるワイドスクリーン効果を可能にしたのが、映像の左右幅を圧縮して撮影し、映写時に二倍に拡大してスクリーンに映し出すことのできる「シネマスコープレンズ」です。

この新しい技術で撮影された映画は人気を呼び、アメリカの映画会社がこぞって採用、各地でワイドスクリーンを上映するために映画館の改築が相次ぐほどでした。

こうした映画界への貢献を称えられ、1955年、ボシュロムは全米映画協会からアカデミー賞 オスカー技術賞を授与されています。

6.ソフトコンタクトレンズを世界で初めて製品化

1960年、社名をBausch & Lomb Optical CompanyからBausch & Lomb Incorporatedに変更するとともに、眼科部門と科学機器部門を設立しました。

そして、1960年代半ばにボシュロムは、ウィリアム・ボシュが光学ガラスの製造を決定して以来の、会社の歴史においても非常に大きな決断をすることになります。

ボシュロムは、戦前からあったハードコンタクトレンズに代わる新しいテクノロジーとして登場してきたソフトコンタクトレンズに注目し参入を決定、研究開発に取り組み始めます。

そして、HEMA(ハイドロキシエチルメタクリレート)という水分を含んで柔らかくなる樹脂素材を使ったソフトレンズの開発に着手。

多額の資金投入と数年間にわたる研究開発の末、実用レベルのソフトコンタクトレンズ「Soflensコンタクトレンズ」を開発し、1971年FDA(アメリカ食品薬品局)の認可を得るのです。

発売から3年を経た1974年には100万人がSoflensを使用しているほど、圧倒的な支持を得て市場を席巻。

すぐに競合他社が現れましたが、世界で最初にソフトコンタクトレンズを製品化したボシュロムの技術的優位性は簡単に打ち破られるものではなく、常に業界のトップをリードし続けました。

この成功でボシュロムは、アメリカを代表する企業の紳士録ともいえる「フォーチュン500」にも名を連ねます。

7.そして、「世界の総合アイケアカンパニーへ」

1980年代と1990年代は、ボシュロムにとって大きな方向転換の時代となりました。長期にわたって保有してきた既存事業の売却や、企業買収による新たな事業分野への参入によってビジネス基盤の強化を図ったのです。

1980年代初めにかつての基幹事業であったガラスレンズ製品部門や顕微鏡部門を売却。

1983年には、コンタクトレンズ関連事業を強化するために酸素透過性コンタクトレンズ素材とレンズケア用品の開発を行うPolymer Technology Corporation社を傘下におさめました。

翌年には睡眠中も装用したままにしておける、連続装用ソフトコンタクトレンズを発表、またレンズケア用品の専用工場をアメリカ国内に建設し、収益性の改善に努めました。

さらに1984年には、国際部門を開設し、各国の消費者のニーズに迅速に対応できる体制を整えます。

1980年代の後半には、 ディスポーザブル(使い捨て)コンタクトレンズや煮沸のいらないソフトレンズ用コールド消毒ケア用品を発表し、世界のコンタクトレンズ市場をリード。

多様化する消費者ニーズに応える商品開発と積極的なマーケティング戦略でビジネスを順調に拡大させていき、1989年には全世界での売上は10億ドルを超え、その活動をワールドワイドなものへ発展させていきました。

世界中のコンタクトレンズユーザーに変革をもたらしたこのディスポーザブル・コンタクトレンズとコールド消毒ケア用品は、その後も継続的に新製品が投入され、現在に至るまでボシュロムのビジネスを牽引する主力商品として成長を続けています。

そして1990年代に入ると眼科用医薬品分野に参入。続いて白内障手術や屈折矯正手術関係の機器を扱うサージカル部門を設立し、サングラス事業の売却などを経て2000年代を迎え、眼科医療のプロフェッショナル分野でのポジションを固め、現在に至ります。

現在ボシュロムの製品は、コンタクトレンズや眼科用医薬品・手術機器などを中心に世界100以上の国々において販売され、“確かな視界で快適な暮らしを”をスローガンに世界中の人々の目の健康に貢献する総合アイケアカンパニーとして21世紀を歩みだしています。

150年以上に及ぶボシュロムの歴史は、時代のニーズに合わせて移り変わってきたものといってよいでしょう。ただし、その根本には、常に「目」あるいは「見る」ということに対するこだわりがありました。

1853年にJ.Jボシュが創立した企業は、創業者達の想像の範囲をはるかに超え、未来へと発展し続けています。

多くの人々に快適で確かな視界を提供し、より素晴らしい光景を見てもらえるように =“確かな視界で快適な暮らしを (Perfecting Vision, Enhancing Life.) ”を世界中で実現するために、創業者とその後の長い会社の歴史の中で続いてきた人々の精神はボシュロムを支え、これからも生き続けていくのです。

8.ボシュロム・ジャパン社のマーケティング政策

ボシュロム社のマーケティング政策の特徴として挙げられるのは、代理店を経由した流通政策を初期よりとっていたことである。

ソフトレンズを市場に普及させるにあたり、ボシュロム社は人員不足を卸売りに頼り、主要な大手取引先は直販体制を敷き、直販と卸経由との二つの流通体系をとってきた。

このことは、結果としては短期的に日本市場に自社の製品を浸透させていくうえでは有効であったものの、卸売り流通業者は自社の都合のいい販売政策をとり、価格体系の統一が図れない原因となった。

流通経路が複雑になることにより、いわゆる原価割れ販売まで価格が崩れていくことに対して問題が深刻となってきた。

そして、2005年4月よりコンタクトレンズは高度医療機器に指定され、医療機器としてより安全な管理体制が厚生労働省から求められることとなった。

さらにコンプライアンスの面からも健康保険を担保として自社のレンズが原価割れ販売を積極的に行う小売店に対して、訴訟をも辞さない強い態度で流通の健全化に立ち向かうこととなった。

このような流通の歴史の中で、市場の流通を担っている従業員はどのような企業理念を理解して、法令遵守に基づく高度医療用具の販売にあたっているのだろうか。

今回のアンケート調査で明らかになってくることを期待している。

Kotler(2001)は『マーケティングマネジメント』において、「競争への対処について、無能な企業は競合他社を無視する。平凡な企業は競合他社を模倣する。

卓越した企業は競合他社の先を行く[2]」と述べている。1970年代の末、ボシュロム社は他のソフトコンタクトレンズ・メーカーに対して攻撃的な行動に出て成功した。

しかしその結果、弱い企業はそれぞれレブロン社、J&J社、シェリングブラウ社といった大企業に身売りをすることとなり、ボシュロム社は結果的にはこれまでより遥かに大きな競争他社を相手にすることとなった。

大抵の企業は、自社に最もよく似た競合他社と競争する。Michael E. Porter(1985)は、「勝利」が逆効果になる例としてボシュロム社のこのような事例をあげ[3]、最も近い競合他社を破滅させるべきではない、と述べている。

9.ボシュロム・ジャパンの会社概要(2007年当時)

社     名 ボシュロム・ジャパン株式会社 (B.L J. Company, Ltd.)

代表取締役社長 井上 隆久

本     社 東京都品川区南大井6丁目26番2号

大森ベルポートB館

設     立 1972年1月(1978年日本法人に改組)

資  本  金 8億5千万円

従 業 員 数 250名(2005年5月現在)

支店営業所    札幌、仙台、東京、大阪、名古屋、広島、福岡

<<参考文献・資料>>

Kotler,Philip(2001), Marketing Management : Millennium Edition, Prentice-Hall Inc.(恩蔵直人訳『コトラーのマーケティングマネジメント ミレニアム版』ピアソン・エデュケーション,2001)

HP ボシュロム・ジャパン株式会社 http://www.bausch.co.jp/,2006年7月12日アクセス

松葉博雄(2007)「コンタクトレンズ業界における良循環経営の調査研究~顧客満足と従業員満足、そして経営理念の視点から~」大阪府立大学経済学研究科修士論文


[1] HPボシュロム・ジャパン株式会社 http://www.bausch.co.jp/

[2] Kotler, Philip.(2001), Marketing Management : Millennium Edition, Prentice-Hall Inc.(恩蔵直人訳『コトラーのマーケティングマネジメント ミレニアム版』ピアソン・エデュケーション,2001),p.263参照

[3] 同書,pp.281-282参照