坂の上の雲ミュージアムで、司馬遼太郎の小説を思い返しました。
松山といえば、坂の上の雲で、正岡子規と秋山真之、秋山好古の秋山兄弟です。松山(15)社長ブログ神戸/旅行 松山/坂の上の雲ミュージアム
松山滞在3日目です。
松山ニューグランドホテルの朝食を頂いて、その後は、今回の研究会参加メンバーで松山城に登る予定です。
ホテルに集合し、竹田栄二さんのゼミ生も、案内のために参加してくれています。
最初の訪問先は、坂の上の雲ミュージアムです。
坂の上の雲ミュージアムに行くには、萬翠荘(ばんすいそう)の門の前を通り抜けていきます。
萬翠荘は、坂の上の雲ミュージアムの後にゆっくり見物します。
昔のお殿様の時代に、その土地のお殿様が関わる建物や庭園は、今の時代では都合が付かないほどの広大な土地を使っています。
「坂の上の雲」は、いわずと知れた、司馬遼太郎の小説です。
坂の上の雲ミュージアムは、緩やかなスロープ状になっていて、ゆっくりと順序に従って歩いて行きます。
そこで、目にしたのは、坂の上の雲に出てくる、登場人物達です。
秋山好古(あきやま よしふる)は、日本騎兵を育て日露戦争においてコサック騎兵と互角にわたりあい、後に陸軍大将となった人物です。
小説『坂の上の雲』で描かれた魅力あふれる人物像は、晩年に故郷松山で北予中学校の校長として務めたことも含めて、今でも多くの方々に愛情をもって語り継がれています。(坂の上の雲ミュージアム公式サイトより引用)
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた人物です。(wikipediaより)
秋山真之(あきやま さねゆき)は、親友の正岡子規の上京に刺激され、愛媛県第一中学(現在の松山東高校)を中学5年にて中退、明治16年(1883年)に将来の太政大臣を目指すために東京へ行き、受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学したそうです。
正岡子規といえば、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 の俳句で有名です。
秋山真之とは愛媛一中、共立学校で同級で、松山在住時からの友人だったようです。
予想以上の資料が展示されていて、ゆっくり見て歩けば、午前中の予定は、全てここで終わってしまいそうなぐらい、いつの時間からか、走り読みをするようにスピードが速くなり、一応、展示物を全て見終えました。
2015年11月29日(日)